秘湯
作:逃げ馬
「おーい・・・高倉・・・・」
僕と同期入社の竹城健太が、か細い声で僕を呼んだ。
僕は高倉晃一。24歳。大手商社の東西物産の企画部に勤務している。
竹城は、大学時代からの同級生。この会社にも僕と同期入社で入った。今は営業部にいる。野球部に入って体を動かすのが好きだった僕とは違い、いつも図書室で静かに本を読んでいるような男だった。性格は僕とは正反対だが、なぜかウマが合った。大学時代からよく旅行に出かけたりもした。今年、お互いこの会社に合格したときには一晩飲み明かしたりしたものだ・・・。その竹城が浮かない顔をして僕のところにやって来たのだ。
「どうしたんだ?」
僕はコンピューターのディスプレイから視線を竹城に向けた。
「うん・・・・実は・・・」
竹城は俯いて黙り込んでしまった。こいつはいつもこうだった。嫌な事があると僕のところにやって来る。しかし、自分から愚痴をこぼそうとはしない。相手を悪く言うのが嫌なのか? それとも、自分の弱い部分を見せてしまうのが嫌なのか? 僕にはわからなかったが・・・。僕は、小さくため息をつくと、
「仕方がない・・・今日の帰りにちょっと飲んで帰るか?」
「うん!」
竹城は顔を上げてニッコリ笑うと、
「・・・それじゃあ、また後で・・・」
機嫌良く部屋を出て行った。僕は苦笑いしながら彼の後姿を見送ると、コンピューターのディスプレイに視線を戻した。
昼になった。
「フ〜ッ・・・昼飯だ〜!!」
僕は、椅子に座ったまま大きく伸びをすると立ち上がって社員食堂に向かった。既に社員食堂は、人で一杯だった。
「おばさん、B定食・・・ご飯は大盛りでね!」
「あいよ!」
おばさんからトレーに載った定食を受け取ると、僕は空いている席に座った。お腹がすいているので、ご飯を目の前にすると自然に笑みが出てきていた。
「いただきま〜す・・・」
僕は割り箸を割ると、ご飯を食べ始めた。
昼の社員食堂は、入れ替わり立ち代り人が入ってくる。僕の隣の席にも、女子社員が二人やって来た。
「ねぇねえ、それでどうなったの?」
女子社員のおしゃべりが僕の耳に入ってくる。
「それがね、『会社の状態がわからなかったのはおまえのせいだ!』って、午前中、怒鳴りっぱなしだったのよ」
もう一人の女子社員がため息をついた。
「もう・・・見ていて竹城さんが可哀想になっちゃって・・・職場の雰囲気も悪くなるし・・・」
僕は思わず箸を止めた。二人の方を見ると、
「今の話なんだけど・・・」
「ハイ?」
二人が驚いて僕を見つめている。
「竹城君・・・何かあったの?」
二人は、お互いに顔を見合わせた。一人が・・・、
「竹城さんが、営業の担当をしていた会社が不景気のあおりで倒産したんです。それで、営業部長が売上の焦げ付きが出たのは竹城さんの責任だと言って・・・」
僕は最後まで聞いていなかった。僕の脳裏には、さっき見た竹城の辛そうな顔が浮かんでいた。
『そうだったのか・・・』
僕は食器の載ったトレーを持って席を立った。
「ありがとう!」
僕は二人に礼を言うと食器を返却に行った。彼女たちは、首を傾げながら視線を僕に向けていた。
『水臭いぞ・・・竹城・・・』
僕は廊下を歩きながら心の中で呟いていた。
夕方、
「お疲れ様でした!」
「お疲れ様、お先に!!」
職場からみんなが家路についていく。
「お疲れ様!」
僕はアタッシュケースに書類を入れるとしっかりロックした。アタッシュケースを持つとオフィスから出て廊下を歩いて行く。
「アッ・・・」
僕の前を、竹城が肩を落としながら歩いている。
僕は、足音を忍ばせながら竹城に追いつくと、肩をポンと叩いた。
「ヨッ!」
笑顔を作って竹城の顔を覗き込むと・・・。
「アッ・・・」
竹城は、ちょっと驚いてから、力なく笑った。僕は、寂しそうに笑う竹城の顔を見ていると辛くなってきた。
「さあ、今日は思いっきり飲もうぜ!」
僕はわざと竹城に向かって陽気に声をかけると先に立って歩いて行った。竹城は苦笑いをしながら僕の後からついてきた・・・。
「いらっしゃいませ〜!!」
威勢の良い声が店に響いている。
僕たちは、居酒屋のカウンターに座ってお酒を飲んでいた。
「全くなあ・・・この不景気に、取引先がいつ潰れるかなんて・・・会社に入って2年にしかならないおまえが見抜けるわけないよなあ!!」
僕は竹城を励まそうと大きな声で言うと、ビールを一気に飲み干した。しかし、竹城は何も言わない。黙ったまま杯の中に入った日本酒を見つめている。
「ハ〜ッ・・・」
竹城は、大きなため息をつくと、
「なんだか・・・・疲れたなあ・・・」
「疲れた?」
「うん・・・・なんだか、自分が頑張っても、どうにもならない周りの状況にね・・・」
竹城は、杯の中の日本酒をしばらく見つめていたが、あおるように飲み干した。大きなため息をつくと、
「君だから言うけど・・・僕はこの仕事が向いていないと思って、他の仕事を探していたんだ・・・でも、この不景気だろう? なかなか見つからなくてね・・・」
僕は驚いて竹城の顔を覗き込んでいた。何か言いたかったが、咄嗟にはかける言葉が見つからない。竹城は僕の顔を見て苦しそうに笑うと、
「おまえくらい周りにも認められて、仕事の実力もあればいいけどね・・・」
小さく笑うと、また、お酒をあおるように飲んだ。
「おい・・・ほどほどにしておけよ・・・」
声をかけたが、竹城は差し出した僕の手を払いのけた。
「苦しいよなあ・・・しかも、頑張れば頑張るほど先が見えない・・・」
竹城は「ハハハッ」と笑うと、カウンターに突っ伏して肩を震わせている。泣いている・・・ぼくは、竹城の肩に手を置いた。彼は、声を押し殺して泣いていた。僕には、彼に声をかけることも出来なかった・・・。
「おい・・・竹城・・・飲みすぎだよ!」
店を出ると、僕は酔って足元のふらつく竹城の肩を支えながら歩いていた。
「なんだって〜?!」
竹城は呂律のまわらない口調で叫んでいる。周りを歩く人たちの視線が僕たちに集中する。僕は、顔を真っ赤にして、
「おい・・・竹城! いいかげんにしろよ!!」
必死になだめた。
「疲れたよ〜!!」
竹城は天を仰いで叫んだ・・・・酔いが、彼の自制心を奪っているのだろう。僕が見ている竹城は、心身ともに疲れきっていた。しかし、僕にはどうしてやることも出来ない。僕は、そんな自分が悔しかった。
「ハ〜ッ・・・ゆっくり休みたいよ〜!!」
「そうだ・・・」
僕は竹城の顔を覗き込んだ。
「なんだよ・・・」
竹城は、酔いがまわって赤らんだ顔を僕に向けた。
「明日から、休暇を取ろうぜ! たまにはのんびりするのもいいだろう・・・温泉にでも行こうぜ!」
「ああ・・・そうだな・・・よし・・・あんな会社サボってやる〜!!」
竹城が叫ぶ。僕はそんな竹城を支えながら、彼をアパートに送ってから家に帰った。
翌日、
「いらっしゃいませ・・・遠いところをわざわざ起こしいただきまして・・・どうぞこちらに・・・」
僕と竹城は、山に囲まれた人里離れた温泉に来ていた。
「こちらの部屋でございます・・・」
僕たちは、まだ30歳前に見える和服姿の女性に案内されながら自分たちの部屋に行った。年代を感じさせる落ち着いた雰囲気の和室だった。
「いい部屋ですね・・・」
僕は窓の向こうに見える美しい山々を見て思わず呟いていた。
「今日は、お客様が少ないので・・・この部屋は、当館では一番景色の良い部屋でございます・・・」
そう言うと、その女性は部屋の入り口できちんと姿勢を正して座りなおすと、
「申し遅れました・・・私、今回お客様のお世話をさせていただく、当館の若女将でございます」
そう言うと彼女はぼくたちに頭を下げた。僕たちも、
「こちらこそ、お世話になります」
彼女はニッコリ微笑むと、静かにふすまを閉めて部屋を出て行った。
「さあ、食事前に温泉に入ってこようぜ!」
僕たちは浴衣と着替えを持って露天風呂に入りに行った・・・。
「はあ〜〜〜・・・気持ちいいよな! 竹城!!」
僕は、露天風呂でまわりの景色を見ながら湯船に浸かっていた。ふと、竹城に視線を移すと・・・・彼は、目を閉じたまま顔の半分ほどを湯の中に沈めていた。僕は、小さくため息をつくと、
「おい・・・ここまで来たら、仕事のことなんか忘れろよ!」
竹城に言ったが、彼は答えない・・・目を閉じたまま温泉に浸かっていた。
「うわ〜・・・すごい料理ですねえ・・・」
部屋に戻ると、僕たちの部屋には夕食の準備がされていた。
「この旅館の料理長・・・なかなかいい腕をしていますから・・・美味しいですよ!」
若女将が笑った。綺麗な笑顔だった・・・僕は一瞬見とれてしまった。
[どうか・・・しましたか?」
彼女が微笑む。
「いえ・・・なんでもないです・・・」
僕は慌てて料理の前に座った。若女将が僕たちに微笑む。
「さあ、召し上がってください・・・」
彼女はビール瓶の栓を抜くと、手を添えて持ち上げて、
「ハイ・・・」
「ア・・・ありがとうございます・・・」
若女将が僕の持っているグラスにビールを注いでくれた。僕はドキドキしながら彼女を見つめていた。彼女の澄んだ瞳を見ていると、まるでその中に吸い込まれていくような錯覚さえ感じていた。その僕の目の前で、竹城は黙々と食事をしていた。
「フ〜ッ・・・美味しかったなあ竹城?」
僕は、ほろ酔い気分で竹城に声をかけた。竹城は、ニッコリと笑って頷いた。僕は、後片付けをしていた若女将に、
「美味しかったですよ・・・ごちそうさま!」
「そうですか? 良かった!!」
彼女は食器を片付けながら微笑んだ。僕はテーブルを挟んで正面に座っている竹城に視線を移した。竹城は、相変わらず時々小さくため息をつきながら、すっかり暗くなった窓の外の景色を眺めていた。
「ところで・・・」
僕はテーブルを拭いている若女将に、
「さっき、ここの温泉に入ってみましたけど、他にどこか露天風呂はありませんか?」
「そうですねえ・・・」
彼女は少し首をかしげると、
「この山の奥に、なかなか良い露天風呂がありますけどねぇ・・・」
「へえ〜・・・おい、竹城! 行ってみようぜ!」
僕が立ち上がると、
「じゃあ、お車を用意しますね」
若女将が笑った。
「エッ? 車・・・?」
「ええ・・・この旅館からかなり山深いところにあるので・・・これだけ暗くなると、車じゃないと行けないんですよ・・・」
彼女は微笑みながら一礼すると部屋を出て行った・・・。
僕たちは、若女将の運転する四輪駆動車に乗って山奥に向かって走っていた。周りは真っ暗で何も見えない。道はだんだん悪くなってきた。車が激しく揺さぶられてうっかりすると舌を噛みそうだ。やがて・・・、
「ここですよ」
そう言うと彼女は車を止めた。僕たちはドアを開けて車を降りた。車の前に広がる景色を見た瞬間。
「うわ〜!!」
僕たちの目の前には、月明かりに照らされた周りを山に囲まれた温泉があった。
「すごい・・・」
ようやく呟く僕に、若女将は、
「この温泉は、まだ地元の人とうちの旅館の上得意のお客様しか知りませんから」
そういって微笑むと、
「あちらに脱衣所がありますから・・・どうぞ入ってください」
僕たちは木で作った囲いのような脱衣所で服を脱ぐと、早速、温泉に入った。
「う〜ん・・・いいお湯だなあ・・・」
僕は手足を伸ばしてお湯の感覚を味わっていた。竹城は、相変わらず黙ったままお湯につかっている。
「この温泉は、”願掛けの湯”と言われているんですよ」
若女将が、少し離れて停まっている車のところから僕たちに言った。
「願掛けの湯?」
僕は、温泉に立ち込める湯気越しに若女将を見つめていた。
「ええ・・・この温泉のお湯を飲んで願ったことは叶うと、地元では言われていますよ・・・」
「へえ〜・・・」
ふと見ると、温泉には僕たち以外にも、小学校低学年くらいに見える男の子が入っていた。
「ぼくも、お願い事をしに来たのかな?」
僕の顔には自然に笑みが浮かんでいた。男の子はコクンと頷いた。
「よし・・・お兄ちゃんと一緒にお願いしよう!」
僕は竹城を見ると、
「おい・・・竹城! おまえもしっかり祈れよ!」
僕は温泉を手で掬って飲んだ。少し塩分の味がした。目を閉じて手を合わせると、
「彼女が出来ますように・・・彼女が出来ますように・・・彼女が出来ますように・・・」
声に出して祈っていた。車の脇で、若女将がクスクスと笑っている。竹城は黙って目を閉じると顔を半分お湯の中に沈めながら温泉につかっていた。
温泉から帰ってきた夜・・・竹城の部屋。
暗い部屋の中に、ポロシャツとジーンズ姿の竹城が座り込んでいる。両手を合わせて目を閉じて一生懸命祈っている。すると、竹城の周りに淡いピンク色の光の球体が浮かび始めた。やがてそのたくさんの数の光が、竹城を包み込んでいく。光に包み込まれた竹城の体は、淡いピンク色の光を放っている。やがてその体は、まるでモーフィングのように形を変えていった・・・。
僕は、温泉から帰ってくると、また仕事に追われる忙しい毎日が待っていた。そんなある日・・・。
「お〜い! 高倉?!」
部長が手を振りながら僕を呼んでいる。
「ハイ?!」
僕は机の間を歩いて部長の前に立った。
「お呼びでしょうか?」
「営業の竹城君は君と同期入社だったね?」
「ハァ・・・そうですが?」
僕はでっぷりと太った立派な体格の部長を見つめながら答えた。
「実は、竹城君がここ数日・・・無断欠勤をしているらしいんだ・・・」
僕は驚いた。温泉から戻ってきたとき、竹城はいつもと変わらない態度だった・・・それに、無断欠勤をするような男ではないのに・・。
「わかりました・・・帰りにでも見に行ってみます」
「頼んだよ!」
僕は席に戻りながらいろいろなことを考えていた。
『竹城・・・・いったい何があったんだ?』
僕は窓の外の景色を見ながら呟いた・・・窓の外には、いつもと変わらないオフィス街の景色が広がっていた。
『ピンポ〜ン・・・』
夕方、僕は竹城の住むアパートのチャイムを押していた。しばらく待ってみたが、中からドアを開ける気配はない。
「竹城! 僕だ・・・高倉だ! 開けてくれ!!」
僕はドアを叩きながら言った。しかし、やはり中から反応はない。僕は、ドアのノブに手をかけた。
「・・・?」
『カチャッ』
ノブから音がする。鍵はかかっていないようだ。
「開けるぞ!」
僕は中にいるはずの竹城に向かって言うと静かにドアを開けた。
「・・・」
部屋はカーテンが閉められて薄暗かった。部屋の奥にベッドが置かれている。しかし、人の気配はしない・・・。
「竹城・・・」
僕は呼びかけてみたが、もちろん誰も答えない。
「これは・・・?」
部屋の床には見慣れないものが落ちていた。手にとって見て、僕は驚いた。
「これって・・・女の子の下着じゃないか?!」
僕の知っている竹城は、勉強は出来るが内気で女の子に自分から声をかけるような男ではない。一瞬『女の子と同棲でもしていたのか?』という考えが頭をよぎったが、僕はそれをすぐに打ち消した。
「いったい・・・どこへ・・・?」
窓から外を見ると、薄いピンク色のスーツを着た若い女性がこちらを見上げている。一瞬目が合うと、彼女は小さく頭を下げて歩いて行った。僕は部屋を飛び出すと管理人室のドアをノックした。
「ハイ? どなた?」
頭が禿げ上がった初老の男が鼻眼鏡をかけてドアの間から顔を出した。
「すいません・・・201号室の竹城の友人ですが、竹城がどこにいるかご存知ありませんか?」
「竹城さん・・・ですか?」
管理人が首を傾げた。
「さあ・・・ここ数日は、妹さんしか見ないけどねえ・・・」
「妹・・・ですか?」
「ええ・・・そうですが・・・」
管理人が訝しげに僕を見ている。
「ア・・・ありがとうございました」
僕は一礼すると竹城の部屋に向かって歩き出した。
「どういうことなんだ・・・」
僕は立ち止まって真上に広がる青い空を見つめていた。
竹城は一人っ子・・・妹などいないはずだった。それが、さっきの管理人の話では、ここ数日“妹”しか見かけないと言っていた。竹城はどこに姿を消したのか・・・僕は胸騒ぎを覚えていた。
そして・・・この日以来、竹城の行方は全くわからなくなった・・・・。
それから数日が経った。
あの日以来、竹城の行方は全くわからない。会社には郵便で彼の辞表が送られてきた。僕の脳裏にはあの日の出来事がしっかり刻み込まれていた。あの時の女の子・・・彼女はいったい誰なんだ・・・そして竹城はいったい・・・。
「ちょっとみんな・・・こっちに注目してくれ!」
部長の声が部屋に響いた。僕はコンピューターのディスプレイから部長に視線を移した。部長の傍らには、きれいな長い髪を後ろで束ねた小柄な女の子が立っていた。
「今日からこの部署に配属されることになった高見沢涼子さんだ。宜しく頼むぞ」
「高見沢です・・・まだ大学を卒業したばかりで何もわかりませんが、頑張りますので宜しくお願いします」
彼女が頭を下げると、皆も一礼して仕事に戻っていった。
「高倉!」
「ハイ?!」
仕事を始めようとした僕は、部長に視線を戻した。部長と新配属の女子社員がこちらに歩いてきた。
「高倉・・・君が高見沢さんの新人教育をやってくれ」
「え? 僕がですか?」
戸惑っていると、
「ああ・・・君はなかなか優秀だからな・・・頼んだぞ!」
そう言うと、部長はぼくの肩を叩いて歩いて行ってしまった。呆然と部長の後姿を見送る僕。我に帰ってふと横を見ると水色のベストとタイトスカート、白いブラウスの制服に身を固めた高見沢さんが微笑みながら立っていた。
「宜しくお願いします」
彼女がぺこりと頭を下げた。
「え? ああ・・・こちらこそ宜しく・・・」
僕は呆然と彼女を見つめていた。その時、彼女の笑顔に一瞬竹城の顔がダブって見えた。そして彼女の顔・・・どこかで彼女を見たことが・・・?
「・・・どうかしましたか?」
首を傾げながら彼女が尋ねた。
「いや・・・なんでもないよ・・・」
僕は首を振ると苦笑いをしてごまかしていた。
昼休み・・・僕は社員食堂でスパゲティーを食べていた。頭の中からは、竹城のことが離れない。
『竹城・・・今・・・いったいどこにいるんだ・・・』
そう思いながらスパゲティーの皿をフォークで突付いていると、
「高倉さん!」
可愛らしい声が聞こえて、僕は顔を上げた。僕の前には、定食を載せたトレーを持った高見沢さんが立っていた。
「ご一緒して・・・いいですか?」
僕の顔を覗き込むように尋ねてきた。
「あ・・ああ・・・どうぞ・・・」
彼女はクスクスと笑いながら僕と向かい合うように椅子に座った。
「高倉さん!」
「うん?」
「スパゲティー・・・グチャグチャになっちゃいますよ!」
彼女に言われて、僕は自分の皿に視線を落とした。皿の上ではスパゲティーはフォークに絡み付いて、まるで団子のようになっている。
「アッ・・・」
たちまち顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかった。頭を掻きながら、
「参ったな・・・」
思わず呟いていた。
「高倉さん・・・何かあったのですか?」
「エッ・・・どうして?」
「だって・・・何か考え事をされていたみたいだったので・・・」
高見沢さんが、大きな瞳で僕を見つめている。その綺麗な瞳を見ていると、僕はまるで吸い込まれてしまうような錯覚を感じていた。
「僕の親友が・・・姿を消してしまってね・・・」
「・・・そうですか・・・」
高見沢さんは、僕の顔から視線をそらさない。
「ああ・・・大事な親友・・・本当に心を許したね・・・」
僕は、窓の外に広がる街並みに視線を移すと、
「・・・今でも街を歩いていると・・・奴の姿を探してしまうよ・・・いったい・・・どこに行ったのか・・・・」
僕は小さく笑った。高見沢さんは、なぜか俯いてしまっていた。僕は、慌てて、
「ごめんよ! つまらない話をしてしまって・・・」
「いいえ・・・」
高見沢さんは顔を上げると、可愛らしい笑顔を浮かべて首を振った。そして、
「高倉さんは・・・優しいんですね・・・」
「エッ?」
「だって・・・その方のこと・・・本当に思ってあげているから・・・」
「そうかな・・・」
「そうですよ・・・」
高見沢さんは微笑みながら窓の外に視線を移した。僕も窓の外を見た。
「わたしも・・・それだけ思ってもらいたいなあ・・・」
「エッ?」
僕は驚いて高見沢さんを見つめた。
「ア・・・なんでもないです・・・」
高見沢さんが笑った。その慌てぶりを見ていると、僕も笑いがこみ上げた来た。ちょっと気が楽になった僕は、
「この週末にね・・・僕は温泉に行ってこようと思うんだ・・・」
「温泉に・・・ですか?」
「ああ・・・そこに一緒に行ったあと、そいつは姿を消したんだ・・・だからそこに行けば何かわかるかもしれないと思ってね・・・」
「わたしも一緒に行ってみていいですか?」
「エッ?」
彼女の意外な言葉に、僕は驚いて高見沢さんを見つめていた。
「いえ・・・わたしも・・・温泉に行ってみたかったので・・・」
高見沢さんは顔を耳まで真っ赤にして俯いてしまった。そんな高見沢さんを見ていると、なぜだろう・・・僕はホッとした気持ちになってきた。そう・・・竹城と一緒にいた時と同じように・・・。
「わかったよ・・・一緒に行くかい?」
僕は明るく言った。
「はい! ありがとうございます!!」
高見沢さんは飛び切りの笑顔で微笑むと、軽く頭を下げた。そんな彼女を見ていると、僕は彼女に“後輩”という以外の感情を感じ始めていた・・・。
それから数日が経った。
僕は高見沢さんと一緒に、再びあの温泉をたずねていた。あそこに行けば、竹城の消息がわかるのではないかと思ったのだ。
「あの時のお連れ様ですか・・・?」
若女将が、お茶を入れながら首を傾げた。
「ええ・・・行方がわからなくなってしまって・・・あれからここには来ていませんか?」
僕は若女将の目をしっかり見ながらたずねた。若女将は首を振ると、
「いいえ・・・おみえにはなっていません・・・申し訳ありません、お役に立てなくて・・・」
「いえいえ・・・そんな・・・」
僕は小さくため息をつくと窓際に歩いていって腰をおろした。若女将が一礼して部屋を出て行った。窓の外に視線を移す。そこには、あの時と変わらない山々のきれいな景色が広がっていた。
「ダメだったか・・・」
ようやく呟くように言うと、
「残念・・・でしたね・・・」
いつの間にか、高見沢さんが僕の肩に手を置いて囁くように言った。
「ああ・・・これで・・・本当に竹城の行方はわからなくなってしまったよ・・・」
高見沢さんは、まるで後ろから抱きつくように僕の背中越しに腕を絡めてきた。彼女の豊かな胸の膨らみが僕の背中に感じられる・・・。
「・・・大丈夫ですよ・・・竹城さん・・・そんなに高倉さんに思ってもらえて・・・羨ましいな・・・」
高見沢さんが僕の顔を覗き込む。彼女の涙に潤んだ綺麗な瞳を見て僕はドキッとした。彼女が目を閉じた。僕は知らず知らずのうちに涼子のの柔らかい唇にキスをしていた・・・。
深夜の露天風呂・・・湯煙で曇ったガラス戸が静かに開いて、高見沢がタオルで体を隠しながら入ってきた。
夜も遅い時間にもかかわらず、誰かが露天風呂に入っている。高見沢はお湯を体にかけると、静かに湯船に体を入れた。一緒に入っている女性に視線を向けた。
「アッ?」
彼女が一礼した。
「貴方でしたか・・・」
一緒に入っている女性が微笑んだ。一緒に入っていたのは、この旅館の若女将だった。
「貴方の願い・・・叶いましたか?」
若女将が優しく微笑みながら高見沢に尋ねた。
「・・・ハイ・・・」
高見沢も明るく笑った。若女将も微笑みながら頷いた。
「でもね・・・あの温泉で願いをかけてそれが叶ったと思っても、本当にそれを叶えるのはその人の努力なのよ・・・」
若女将が微笑む。高見沢も微笑みながら頷いた。
「頑張ってね!」
「ハイ!」
二人は空を見上げた。
まるで降るような星空が彼女たちの上で輝いていた・・・。
秘湯(終わり)
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