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24時間
佐藤さんの場合

作:逃げ馬







夕方の街。
夕日が立ち並ぶ家々を、赤く染めている。
この街は、最近開発をされた郊外の新興住宅地だ。
一軒当たりの敷地は広く取られ、そこに似通った外観の建売住宅が並んでいる。
その中を制服姿の少年が、自転車で走っている。
買い物から帰ってきた若い主婦の横を、少年の自転車が走っていく。
「お帰りなさい!」
声をかけられると、
「こんにちは!」
元気に挨拶をして、数軒先の家の門で自転車を降りた。
ガチャガチャと音をたてて門を開けると、隣の家の庭で花の手入れをしていた老婦人が、
「あら・・・賢一君。 お帰りなさい」
「おばあさん、ただいま!」
ペコリと頭を下げると、自転車を押しながら玄関へ歩いて行く。
そんな賢一の後姿を、老婦人は眩しそうに見つめている。
少年の名は佐藤賢一。進学校として有名な開英高校の二年生だ。高校の同級生たちと比べると身長は160cm半ば、顔立ちは幼い・・・そのコンプレックスもあるのか学習成績優秀な割には、気が弱い。
自転車のスタンドをかけると、隣の家の庭に視線を向けた。老婦人が相変わらず花の手入れをしている。その手の先ではチューリップが蕾を付けている。
賢一は玄関のドアを開けた。
「ただいま〜」
元気な声が家に響く。
隣家の庭先では、老婦人が手を止めて賢一の家を見つめている。その目には、羨望の眼差しが浮かんでいる。

「お帰りなさい」
賢一の母、美恵子が微笑みながら迎えた。
「ちょうど良かった・・・」
「何が?」
「お隣に回覧板を持って行ってきて」
「エ〜〜〜ッ?!」
嫌がる賢一に向って、
「ほらほら・・・・さっさと行ってくる!」
美恵子は賢一の胸に回覧板を押し付けると、
「行ってらっしゃい! お願いね♪」



「参るよなあ・・・」
賢一は隣家・・・山下家の玄関前に立った。インターホンのボタンを押すと、家の中からチャイムの音が聞こえてきた。
『はい・・・』
「こんにちは! 佐藤ですが、回覧板を持ってきました」
『ありがとう』
しばらくすると廊下を歩いてくる足音が聞こえて、ドアの鍵が外れる音がした。玄関が開くと、立っていたのはさっきの老婦人だ。
「さあ、上がって」
「いえ・・・・回覧板を持ってきただけですから・・・」
「良いじゃない、さあ!」
「それでは、お邪魔します・・・・」
老婦人に促されて、賢一は家に上がった。
「すぐに、お茶を入れるからね・・・」
「お構いなく・・・・」
戸惑う賢一に構わず、老婦人はいそいそとお茶を入れて、お菓子を賢一の前に置いた。
「どうぞ」
「いただきます」
お菓子を食べる賢一を、老婦人は優しい眼差しで見つめている。
この夫人の名は山下トミ。年齢は75歳になった。
家族に先立たれて今は、この広い家に一人で住んでいる。
「どう? 美味しい?」
「はい! 美味しいです!」
「そう! どんどん食べてね」
トミは満足そうに微笑むと、空になった湯呑に茶を注いだ。
お菓子を美味しそうに頬張る賢一を優しい眼差しで見つめながら、
「・・・賢一ちゃんには・・・いつも、まり子と仲良くしてもらっていたわねえ・・・」
微笑みを浮かべ、呟くように言った。
賢一のお菓子を食べる手が止まった。顔をあげてトミを見つめている・・・。じっと見ているとまり子との思い出が脳裏に甦ってきた・・・。



トミの孫、山下まり子は、賢一にとっては幼い時から中学校までを一緒に過ごした文字通りの幼馴染だった。
まり子は父親の顔を知らない。
父はまり子が幼い時に他界し、母親とトミが二人でまり子を育ててきた。
勉強は出来るが気が弱い賢一とは対照的に、まり子は勉強も出来て明るく・・・そして気が強い。
その上“美少女”だとなると、周りに人が集まらないはずはない。
中学校三年生の時には、賢一は生徒会の書記に、そしてまり子は生徒会長になっていた。
幼馴染で家は隣、そしてまり子は美少女・・・当然クラスでは「あの二人つき合ってんじゃないの?」と噂が立った。
教室で同級生から問い詰められた賢一は、
「まさか?!」
と笑ってかわしたが、それを見ていたまり子はツンと横を向いてしまった。



目の前では、トミが賢一を見つめている。
年齢を重ねたその顔には、当然年齢相応の深い皺が刻まれている。
しかし、その目元・・・温かい眼差しは、孫のまり子にそっくりだった。
『そう言えば・・・』
賢一は、ある日の出来事を思い出していた。



「おい・・・・君・・・・?」
ここは中学校の校舎の裏。そこに植えられた木にもたれながら、男子生徒がたばこを燻らせている。
長身の体に、黄色く染めた長い髪。そしてまるで爬虫類のような目。
男子生徒はその視線を、声をかけた賢一の方に向けた。
「なんだよ?」
「た・・・・たばこは・・・?」
「あん? なんか文句があるのか?」
右手の指に煙草を挟みながら、賢一の方へ歩いてきた。
「校則でも・・・」
「校則が何だって?」
ニヤリと笑う男子生徒。煙草の脂で黄色くなった歯が覗いている。 賢一は、それ以上何も言えずにうつむいてしまった。
「おい・・・なんとか言えよ・・・」
男子生徒がニヤニヤしながら賢一の顔を覗き込んでいる。
「校則が何だって?!」
賢一の胸を小突く男子生徒。
その時、
「ちょっと待ちなさい!」
大きな声が聞こえて、二人が声の聞こえた方を見た。少し離れた通路に、女の子が三人立っている。
「ちょっと、まり子・・・・やめなさいよ!」
二人が止める手を振り払って、長い髪を揺らしながらまり子が走ってくる。
息を切らせながら走ってくると、男子生徒の顔を見上げながら、
「何をやっているのよ?!」
その可愛らしい顔に似合わない鋭い目つきで、男子生徒を睨んでいる。
「お前には関係ないだろう?」
まり子はクンクンと鼻を鳴らした。ハッとして、その臭いの元に視線を向けた。
「ちょっと、タバコは駄目でしょう?!」
「なんだよ、お前には関係ないだろう?!」
男子生徒はそう言ったが、何かに気がついたのか、きつい視線をまり子に向けた。
「お前、生徒会長だからって“先公”にチクるつもりか?」
「何よ、タバコなんか吸っているのはあなたでしょう?」
まり子はクスッと笑うと、
「チクられるってビビるくらいなら、タバコなんて吸わなきゃいいのに」
男子生徒は、カチンときたようだ。
「何だって、こいつ・・・」
ニヤリと笑うと、
「お前だって、中学三年生でバージンをなくしたくないだろう、夜は気をつけろよ」
しかし、まり子の反応は男子生徒の予想とは全く違っていた。
まり子は小さく鼻を鳴らすと、
「そんなことでしか脅かせないんだ・・・情けない・・・女の子に相手にされないわよ」
賢一の腕を掴むと、
「こんな奴、相手にしていないで・・・行こう!」
呆然としている少年を置き去りにして、二人が小走りに走っていく。

二人が息を切らせて校舎の中に駆け込んできた。
あの少年から隠れるように二人は校舎の壁にもたれかかり、深呼吸をしながら息を整えようとしていた。
「・・・やばかった・・・」
賢一が息を切らせながら言った。
「・・・たばこを吸っている奴を見ても・・・注意なんか・・・するもんじゃないな・・・・」
壁にもたれていたまり子が、すっと背筋を伸ばすと、賢一を厳しい目つきで見つめている。
「なによ! だらしがないわね!!」
賢一が驚いてまり子を見つめている。
「悪いことをしたり、困っている人がいるのに知らんぷりをするなんて最低よ!」
「ちょっと待てよ・・・」
賢一が困惑しながら言ったが、まり子は聞く耳を持たなかった。
「注意をして喧嘩になるなら、戦えばいいじゃない・・・・自分が間違っていないのならば、みんなは黙っていないわよ・・・・」
『わたしがそうだったでしょう?』・・・そう言いたい気持ちを、まり子は懸命に抑えていた。
「賢一君が、そんな人だと思わなかった・・・・」
悲しそうな視線を向けるまり子を、賢一はまとも見ることが出来なかった。
小さく口を動かしながらまり子は、俯いたままの賢一を見つめていた。まだ、何かを言いたいのだろうか?
悲しそうな瞳で賢一を見つめていたが、やがて背を向けると小走りに教室へ走って行った。
賢一は、何も言えない。
やがて俯いたまま動けない賢一の耳に、授業が始まることを知らせるチャイムの音が聞こえてきた。

それから二人は、顔を合わせてもあまり話をすることはなくなってしまった。
生徒会の役員が集まっても、他の役員たちと話をしているまり子を見つめる賢一の視線に気づくと、まり子はすっと横を向いてしまう。
賢一とは“必要な話”と“挨拶”くらいしかしなくなってしまっていた。

そして中学校を卒業をすると、賢一は開英高校に。そしてまり子は女子の名門、純愛女子学園高校に進学した。
高校生になると隣に住んでいるとは言っても、通学をする学校が違う二人は、なかなか顔を合わすことは無くなってしまった。
たまに会っても、挨拶程度・・・制服に身を包み、少しずつ大人っぽく・・・まるで蝶が蛹から羽化するように、一段と美しくなっていくまり子の後姿を、じっと見つめていることしかできなかった・・・そんなある日・・・・。

「ただいま〜」
玄関を開けて賢一が元気に帰ってきた。靴を脱ぐとスクールバッグを持って廊下を歩いてくる。
突然、リビングのドアが勢い良く開いて母の美恵子が飛び出してきた。その表情・・・真っ青な顔を見た瞬間、賢一の足は止まった。
「どうしたの・・・」
賢一が最後まで言い終わらないうちに、
「まり子ちゃんが入院したの!」
勢い込んで美恵子が言うと、
「入院? 入院って・・・」
「学校で倒れて、病院に運ばれたのよ!」
「エッ・・・?」
母の言葉の意味が理解できず、頭の回転の速いはずの賢一の思考は停止してしまった。ただ、その場に立ち尽くしているだけだ。
『まり子が・・・・? いったいなぜ・・・・?』足が震え始めていることに、賢一は全く気がつかない。
「何をボーっとしているの?!」
美恵子が賢一の肩を揺すった。
「さっさと準備をしなさい! お見舞いに行くわよ!!」

母の運転する車で病院に着くと、二人は急ぎ足で受付に向かった。
入院をした病室を尋ねると、
「ICU(集中治療室)に入院されています」
と言われ、賢一と美恵子は事の重大さに言葉が出なかった。
「とにかく行くわよ」
母に促され賢一は、集中治療室に向かった。
集中治療室の前に置かれたベンチには、まり子の母親が疲れ切った表情で座っていた。
賢一たちに気がつくと、
「あっ・・・佐藤さん」
「山下さん、大変だったわね」
まり子の母親は、美恵子の姿を見て緊張感が切れてしまったのだろうか? 美恵子に縋りつくと声を上げて泣き出した。
美恵子はしばらく抱きしめながら、
「大丈夫・・・大丈夫よ・・・」
瞳を潤ませながら、声をかけていた。
賢一は、何も言えない。 ただ、“普通ではない”雰囲気を感じて、まり子の身に何が起きているのか不安になっていた。
少し落ち着いたのだろうか? まり子の母親は、制服姿のまま見つめている賢一に気がつくと、
「賢一君もお見舞いに来てくれたのね・・・」
微笑みを浮かべると、
「ありがとう・・・まり子に会ってあげて・・・」
集中治療室には、患者の“身内”しか入ることが出来ない。 賢一たちは、大きな窓越しにまり子に会うことになる。
「・・・」
賢一は言葉が出なかった。
色白のまり子の肌は一段と白くなり、その可愛らしい顔・・・口には酸素吸入のためのマスクが付けられている。
呼吸の音は聞こえないが、胸が苦しそうに上下している。
「一体・・・・・なぜ・・・?」
胸が熱くなる賢一。
「まり子ちゃん、一体どうしたの?」
美恵子が呟くと、まり子の母親は美恵子の耳に何かをささやいた。美恵子は目を見開いてまり子の母親を見つめた。まり子の母親は苦しそうに微笑み、小さく首を振ると顔を覆って泣き出した。
病棟の廊下に、まり子の母親の嗚咽が響いていた。

それからしばらくは、賢一は学校の帰りに病院に通うのが日課になった。
病院に行っても集中治療室の中で病気と闘うまり子を、ガラス越しに見守ることしかできない。
それでも賢一は、じっとしていることはできなかった。青白い顔でベッドに横たわるまり子を見つめながら、
「がんばれ・・・」
ガラスに顔を押し付けるように、まり子の顔を見つめながら呟いている。
そう、賢一は自分にとってまり子がどういう存在なのかを感じ始めていた。
そんなある日・・・。

銀色の車体に水色のストライプの入った電車が、駅に入って行く。
スピードが落ちて駅に停まりドアが開くと、ホームに乗客たちをドッと吐き出した。
賢一も人の流れに乗って改札口を出ると、駐輪場から自転車を出していつものように病院に向かった。
普段は学校が終わって家に帰る時には、一日の授業で体が疲れていて、自転車のペダルは重い。
しかし最近は、自転車を漕ぐペダルも軽い。『これからまり子に会って励ます』そう思っただけで自転車のスピードは自然に上がって行く。
病院に着くと駐輪場に自転車を置いて、かごからスクールバッグを取り出した。
“いつものように”集中治療室に向かった。病棟の廊下を歩いて集中治療室のガラス窓を覗くと、
「アレッ?!」
昨日までまり子が寝ていたはずのベッドは、空になっていた。『いったいどこへ・・・?』一瞬、嫌な事が頭に浮かんだが、賢一は懸命にそれを打ち消し、ちょうど廊下を歩いていた看護婦を捕まえると、
「昨日までここにいた、山下まり子さんは・・・」
「ああ・・・・山下さんね・・・」
看護婦は優しく微笑むと、
「今朝、一般病棟に移ったわよ」
「一般病棟? それじゃあ、直接会えるのですか?」
「会えるわよ、マスクはしてもらわないと・・・」
賢一は看護婦の言葉を最後まで聞いていなかった。廊下を一般病棟に向けて走り出した。
「ちょっと! 3階の301号室ね!」
「あっ・・・ありがとうございます!」
賢一は一礼すると、また走り出した。 看護婦はクスクス笑いながら、その後ろ姿を見送っていた。

病室の前まで来ると、『手指を消毒し、マスクを付けてお入りください』と張り紙が貼ってある。
『細かいなあ・・・』と一瞬思ったが、まり子は昨日までは集中治療室にいたのだ。そう思うと自然に消毒液で手指を消毒し、置かれていたマスクを顔に付けていた。
改めてドアの前に立つ。301号室のプレートの下には、『山下まり子様』と書かれた名札がある。
賢一は深呼吸をするとドアをノックした。
「はい、どうぞ!」
聞き慣れた声に、ドキッとする賢一。
「失礼します」
と言うと同時に、ドアを開けた。
「あら、賢一君」
まり子の母親が、微笑みながら迎えてくれた。
「まり子、賢一君が来てくれたわよ!」
「本当?!」
まり子がベッドから体を起こした。賢一の姿を見ると、ニッコリ微笑んだ。そう、いつものように・・・。
「大丈夫?」
いろいろと言いたいことはあるはずなのに、賢一が言ったのは当たり障りのない一言だった。
「うん、ありがとう!」
まり子の母親は、テーブルに置かれていた花瓶を手にすると、
「お母さん、お花の水を換えてくるからね」
「うん・・・」
賢一は、まり子の母親の後姿を見送った。病室のドアが閉まると、
「毎日・・・・」
まり子の声が聞こえて賢一は再び、まり子を見つめた。
「毎日、ここに来てくれていたの?」
「うん・・・」
「どうして・・・開英高校は厳しい学校だから、勉強も大変なのに・・・」
「勉強は、ちゃんとしているよ」
「だったら、どうして・・・」
「心配・・・だから・・・」
「エッ?」
賢一は、ちょっと照れくさそうな表情を浮かべると、
「君のことがさ・・・心配だから・・・」
まり子はちょっと悪戯っぽく微笑んだ。魅力的な笑顔だ。
「ありがとう!」
まり子はベッドの上で小さく伸びをすると、
「病院は退屈ね・・・」
「そうだろうな・・・」
「ねえ・・・」
「うん?」
まり子は賢一の顔を見ながら、
「私の家の庭のチューリップ・・・・今年はもう咲いたかな?」
「うん?」
賢一は少し記憶をたどると、
「まだ・・・だよ・・・」
「そう」
まり子が微笑んだ。
「いつもおばあちゃんと一緒に世話をしていたから・・・今年も見たいなあ・・・」
「見れるさ・・・」
「エッ?!」
まり子が驚きながら、賢一の顔を見つめている。
「もう、普通の病室に来ているんだ・・・・きっと家に帰って、いつものように庭のチューリップを見れるさ」
まり子は、じっと賢一の顔を見つめている。ニッコリ笑うと、
「そうだよね」
賢一も笑った。まり子も笑う。
病室から聞こえる二人の明るい笑い声。その声をまり子の母親は、廊下で悲しそうに聞いていた。

それから数日、賢一は学校が終わるとすぐに病院に駆け付けた。
あの気まずい出来事が嘘のように、二人で過ごす時間は楽しかった。
病室で話すまり子の姿は賢一の目には、いつものまり子と変わらないように見えた。
『もうすぐ退院できるのでは・・・?』
そういう思いが湧いていた。
そう、まだ賢一には判らなかったのだ・・・それが、まり子の命の消える前の“最後の輝き”だったことが・・・。

数日後

夜の病院。
すでに診察を受ける患者も、診察室に医師の姿もない。
夜の道を一台の自転車が走ってくる。自転車を駐輪場に止めると、乗っていた少年は荒々しくスタンドをかけて通用口に向かって駆け出した。
病棟の廊下を賢一が足音高く走って行く。301号室の前まで来ると、
「賢一?!」
病室の前に立っていた美恵子が呼びとめた。
「まり子は?!」
「今、意識がないの・・・」
「そんな・・・?!」
呆然とする賢一。
「お父さんも、後から来るって言っていたわ・・・」
突然、病室から、
「まり子?!!」
まり子の母親の悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。
病室の扉が開き、硬い表情の看護婦が走って行く。
賢一が病室を覗き込むと、ベッドの側でまり子の母親とトミが必死にまり子に呼び掛けている。
二人の間でベッドに横たわるまり子は、酸素吸入のマスクを付けられて苦しそうに呼吸をしていた。
「まり子!!」
思わず賢一は病室に飛び込むと、冷たい手を握りしめていた。
「まり子・・・・まり子! しっかりしろよ!!」
握りしめたまり子の手を、思わず自分の頬に当てていた。
苦しそうに呼吸をしながら、まり子が目を開けた。
「まり子!」
「しっかりして!!」
トミと母親が必死に呼びかける。
賢一の表情が明るくなった。 まり子が彼をじっと見つめている。
まり子の口が、小さく動いている。
『ありがとう』
そう言っていた。ニッコリ微笑むと、瞳を閉じた。
心電図計から電子音が鳴りだした。
「まり子? まり子?!!」
賢一が叫ぶ。
ドアが開き、医師と看護婦が飛び込んできた。
「君は、外に出ていて!」
看護婦が賢一を、病室の外に押し出した。
まり子の母親とトミは、必死にまり子の名を呼んでいる。
医師が懸命に心臓マッサージをしている。
「まり子!」
賢一が叫ぶ目の前で、病室のドアが閉まった。

まり子はその夜、永遠の旅に旅立って行った・・・。






「賢一君?」
「アッ・・・?」
名前を呼ばれ、賢一は想像を破られた。
『まり子・・・?』
彼を見つめる視線に気がつき、賢一は一瞬そう思ったのだが・・・?
『アッ・・・?』
トミが心配そうに、賢一の目を覗き込んでいる。
「大丈夫・・・?」
「アッ・・・ハイ!」
賢一は、バツが悪そうに頭を掻いた。
賢一は立ち上がると、
「ごちそうさまでした!」
そう言うと、トミに頭を下げた。
「もう、帰るの?」
「はい、宿題もありますから・・・」
賢一は、明るい顔で言った。
「そう・・・」
じゃあ、仕方がないわね・・・そう言うと、トミも笑った。
賢一が玄関に向かうと、トミも玄関にやってきた。
「それでは、失礼しました・・・」
「またね・・・」
そう言うと、トミは微笑みながら、賢一を見送った。
賢一が、一礼してドアを閉める。
閉まったドアを見つめるトミの顔には、暗い表情が浮かんでいた。




翌日

夕方、夕陽が美しい庭を赤く照らしている。
トミは、いつものように庭の手入れをしていた。
そのトミの前を、いつものように賢一の自転車が走っていく。
「こんにちは!」
フェンス越しに賢一が挨拶をすると、
「お帰りなさい!」
トミも微笑みながら答えて、立ち上がろうとした。しかし・・・。
「?!」
トミの顔が苦痛で歪む。
右手をお腹にあてると、よろめいて膝を突き、なんとか体を支えた。
賢一の自転車が、けたたましいブレーキの音をさせながら止まった。
「大丈夫ですか?!」
賢一が心配そうに声をかけると、
「大丈夫よ・・・」
驚かせてごめんなさい・・・そう言うと、トミは優しく微笑んだ。
賢一も、その表情を見て安心したようだ・・・・ニッコリ笑って一礼すると、家に入っていく。
トミは目を細めて、その後ろ姿を見送っていたが・・・。
「?!」
再びお腹を押さえて、うずくまってしまった。
しばらく顔をしかめて蹲っていたが、やがて苦しそうに顔を上げた。
その視線の先には、蕾の付いたチューリップが並んでいる。
トミは苦しそうに微笑みながら、その蕾を見つめていた。




ところは変わって、ここは天国。



白く輝く美しい服を着た美少女が、泉の水面を見つめながら涙を流している。
「・・・おばあちゃん・・・」
まり子は、泉の水面に映るトミの姿を見つめている。
大きな瞳から涙がこぼれ、落ちた涙が泉の水面に小さな波紋を広げている。
「どうしたのかな?」
まり子がハッとしたように顔を上げ、声の聞こえた方向を見た。
そこには、白く長い髭を蓄え、杖をついた白髪の老人と、同じように白い服を着た青年が立って、まり子を見つめていた。
「わたしのおばあちゃんが・・・体が悪いようなのです・・・」
まり子の言葉を聞いて、
「ふむ・・・」
老人も泉に映る、トミの様子を見つめていた。
「人が生きる事の出来る時間は、限られている・・・君のおばあさんも、残された時間は短いようじゃの・・・」
まり子は、老人の白い服に縋りついた。
「おばあちゃんの最後が、一人きりなんてかわいそうです・・・お願いです・・・わたしをおばあちゃんのそばに行かせてください!」
傍らにいた青年が、驚いたようにまり子に駆け寄り、老人から引き離そうとした。
「そんな・・・無理を言わないでくださいよ?!」
青年がまり子を必死に引き離そうとするが、まり子は老人の白い服の裾に縋りつき、潤んだ瞳で老人を見上げている。
「君は・・・もう下界には、いない人間だ・・・おばあさんのそばに行っても、おばあさんは君を見る事も、声を聞く事も出来ないんだよ・・・」
残念だがね・・・そう言うと、老人はまり子を慈しむように見つめていた。
「そんな・・・・」
まり子が声を上げて泣き崩れた。
青年は困惑したように、泣き崩れるまり子と老人を交互に見つめている。
「よし・・・」
老人は、まり子の肩に手を置くと、
「わたしが・・・下界へ行って来よう!」
まり子が、涙で濡れた顔を上げて、老人を見上げた。
老人が優しく肯く。
「神様! ちょっとお待ちください!」
青年がタブレットPC取り出すと、画面の上で指を動かしながら、
「この後は、世界神様サミット・・・八百万の神国際会議など、予定はたっぷり埋まっています!」
とてもじゃありませんが、下界へ行く時間はありません・・・青年がタブレットの画面を見ながら言うのを聞いていた老人は、青年の持つタブレットを指さしながら、
「一体・・・いつ、そんなものを用意したんだ?」
「いつも分厚いファイルを持っていると疲れますから・・・作者が書くのが遅くて出番がなかなか回ってこなかったので、下界の“アキバ”とういうところで買ってきました」
「なんだ・・・君も下界へ行っているんじゃないか・・・(^^;」
それなら私がちょっと行っても良いだろう・・・そう言う老人を、青年が必死に止めている。その時、
「じゃあ、わたしが代わりに行ってくるわ・・・」
高く澄んだ美しい声が聞こえた・・・三人がそちらを見ると、彼らと同じように白く美しい服に身を包んだ、若い美女が立っていた。
「あなた・・・は・・・?」
まり子が呟くように言うと、
「山下まり子さんね・・・」
美女が優しく微笑みながら、まり子を見つめている。
「どうして・・・わたしの名前を・・・?」
「わたしは、あなたのことをずっと前から知っているわよ・・・いつも学校に来ると、わたしに祈りを捧げてくれていたじゃない・・・」
アッと声を上げるまり子に構わず、美女は青年に向かって、
「わたしが代わりに行くなら良いでしょう?」
「いや・・・ダメですよ・・・聖母さま!!」
青年は、タブレットPCの画面を指で撫でながら、
「聖母さまもサミットや会議など、スケジュールはぎっしりです!」
下界の事は、下界に任せておきましょう・・・皆さんはスケジュールが・・・そう言う青年を見ながら、美女は小さく肩を竦めた・・・そして悪戯っぽい笑みを浮かべると、


「アッ?! あれは?!!」


「「「エッ?!」」」




皆が美女の指差した方向を見た瞬間、美女の美しい体を光が包んでいく。


「聖母さま?!!」


気が付いた青年が叫んだが、既に美女を包んでいた光も、その姿も消えていた。
「しまった・・・逃げられたか・・・?!」
いつもこうなんだ・・・青年が悔しそうに言った。
まり子は、傍らに立つ老人を見上げた。
老人は肯きながら、泉の水面を見ると、
「さてさて・・・・どうなる事か・・・?」
小さくため息をつきながら、水面に映る様子を見つめていた。





数日後 夕方

駅に銀色の車体に、スカイブルーのストライプの入った電車が滑り込んできた。
ホームに止まるとドアが開き、乗客たちが次々ホームに降りて行く。
賢一も乗客たちの流れに乗って改札口を出ると、自転車置き場に向かって歩いて行く。
自転車に乗ると、いつものように家に向かって走り出した。
駅前通りから住宅街に向かって走っていると、
「・・・?」
商店街の大通りに、顔をベールで覆った女性が机を前にして座っている。
机の上には、水晶玉が置かれている。
『占い師・・・か?』
そう思いながら賢一は、占い師の前を通り過ぎようとしたのだが・・・?
「そこの君・・・?」
「ハイッ?!」
賢一は、急ブレーキをかけて自転車を止めた。
「僕・・・ですか?」
「ええ・・・・そうよ」
ベールの奥で、若くて美しい女性が微笑んだ・・・ようだ。
「そこに座って・・・」
彼女は机の前に置かれた、丸椅子を指差した。
黙って彼女を見つめている賢一を見て、ベールの奥に見える彼女の瞳は笑った・・・ように見えた。
「大丈夫よ・・・さあ・・・」
賢一は自転車を降りるとスタンドをかけて、机の前に置かれた丸椅子に腰を下ろした。
顔を覆うベールの向こうで、彼女が微笑んだ。
賢一が周りを気にしてキョロキョロしている・・・しかし、大通りを行き交う人たちは、ここに座る二人にまるで気がつかないかのように行き交っている。
賢一の前で、彼女が水晶玉を見つめている。
小首を傾げたり、肯いたり・・・しばらく水晶玉を見ていたのだが・・・。
「なるほど・・・」
真剣な顔で水晶玉を見ていた彼女が、微笑みを浮かべた。
「あなたは・・・好きな女の子がいたのね・・・」
「エッ?!」
なぜ?!・・・そう思った賢一の顔がたちまち赤くなる。
占い師の女性が、ベールの向こうで微笑みを浮かべた。
「でも・・・彼女は“永遠の旅”に出てしまった・・・」
彼女の言葉を聞いて、賢一はまり子の笑顔を思い出し、唇を噛みしめた。
占い師の女性は、ベールの向こう側から賢一にやさしい視線を向けながら言った。
「あなたは今夜・・・とても不思議な時間を過ごすことになるわ・・・旅立った彼女にもう一度会う・・・不思議な時間をね・・・」
驚きの視線で見つめる賢一に、彼女は優しい微笑みを見せた。




「ただいま!」
賢一が家に戻ると、家の中では彼の父と母が慌ただしくスーツケースに荷物を詰め込んでいた。
「どうしたの?!」
賢一が母に尋ねると、
「長野のおじさんが、倒れたらしいの!」
慌てているのだろう・・・母は賢一を見もせずに、相変わらず荷物をスーツケースに詰めながら、早口で言った。
「大丈夫だ・・・」
父が車のキーを持ってリビングルームに現れた。
「大したことはないらしいが念のため・・・といったところだな・・・」
父は、行くぞと母を促すと、玄関のドアに手をかけた。
「あすの午後には帰ってくるとは思うが・・・留守を頼むぞ!」
「うん・・・」
賢一が頷いた。
母がスーツケースを手に玄関にやってきた。
「そうそう・・・回覧板を、山下さんに持っていっておいてね!」
「エッ? 僕が?!」
「もちろんよ・・・他に誰が持っていくの?」
私たちは、これから長野へ行くのよ・・・母は、半ば呆れたように賢一の顔を見つめていた。
「おい・・・行くぞ・・・」
父に促されて、母は玄関を出た。
父はスーツケースを車のトランクに入れると、エンジンをかけた。
「じゃあ、留守を頼むぞ・・・」
「行ってらっしゃい・・・」
賢一が言うと父は頷き、車を発進させた。
車のテールライトが小さくなっていく。
賢一は小さくため息をつくと、家に入った。




両親が出かけた後のリビングルームは、当然ながら誰もいない。
リビングのテーブルの上には、母が言ったように回覧板が置いてあった。
「持っていかないと・・・」
回覧板を手にした賢一は、小さくため息をついた。
回覧板を持ち、玄関のドアを開け外に出る。
『そういえば、まだ制服を着たままだったな・・・』
両親のあわただしい出発を見て、着替えることさえ忘れていた。
回覧板を届けたら、着替えて晩御飯を食べよう・・・賢一は、そう思いながら山下家の門の前に立ち、インターホンのボタンを押した。
その時、

「ウッ?!」

全身に痛みが走る。
「な・・・なん・・・だ・・・?」
賢一は思わず両腕で自分の体を抱きしめ、その場に座り込み体を震わせながら痛みに耐えた。
視界が赤い? いや、違う・・・僕の体を赤い光が包んでいるんだ・・・・。
そう思いながら、賢一は立ち上がろうとした。

しかし、次の瞬間、賢一は体に強烈な変化を感じながら、気を失ってしまった。




「・・・・?!」
誰かが名前を呼んでいる?
でも・・・何かが違う・・・・?

賢一は目を開けた。
地面が目に入る・・・・そうか、僕は倒れてしまったんだ・・・・そう思ったのだが、

「よかった・・・・大丈夫?」

トミが賢一の顔を覗き込みながら微笑んだ。

「アッ・・・・どうも・・・・」

ありがとうございます・・・・そう言いながら、賢一は立ち上がった。
次の瞬間、

「?!」

体のバランスがおかしい?
いや、違う・・・・胸に重みを感じる?
それになぜ、両足に夜の空気を感じるのだ?
ふと視線を落とすと、着ているブレザーの制服の胸元は大きく膨らみ、なぜか履いている青いチェックのプリーツスカートからは無駄毛一本無い白く美しい足が伸びて、紺色のハイソックスがその足を引き締めている。
そして左右のボタンが逆になったブレザーの制服についているエンブレムは・・・・これは、純愛女子学園のエンブレムでは?!

立ち上がった拍子に、長い髪が揺れて耳を撫でる。
トミは戸惑う賢一を嬉しそうに見つめている。

「帰ってきてくれたんだね・・・・まり子!!」

『エッ? まり子・・・って・・・?!』

僕はまり子じゃありません!・・・・そう言い返そうとした賢一だったが、なぜか言葉を発することはできなかった。
さあ、家に入りなさい・・・・落ちていた回覧板を拾い上げたトミが、賢一にやさしく言った。
賢一の体に手を当てながら、トミが賢一を家の中に誘った。
玄関を入ると、靴箱に大きな鏡がはめ込まれていた・・・・その鏡に映ったのは・・・・・。

戸惑った表情で鏡の向こうからこちらを見つめているまり子の美しい姿だった・・・・。



「どうしたの?」
トミが微笑みを浮かべながら賢一を見つめている。

『僕は・・・隣の賢一です、まり子じゃありません!』

そう言いたいのだが、言葉が出ない。
まり子の姿になった賢一は、いつものように可愛らしい微笑みを浮かべただけだった。
「さあ、早く上がって・・・・」
トミに言われて、まり子の姿になった賢一が家に上がった。

「本当に・・・・よく帰ってきてくれたわね・・・・」

トミの声が震えている。
その目から零れ落ちる涙を、指の先で拭いながら、

「さあ、お風呂が沸いているわよ・・・・入ってらっしゃい・・・・・」

賢一にはしばらく見せたことのない、こぼれるような笑顔で言った。



まり子の姿になった賢一が“慣れた手つき”で制服の上着を脱ぎ、リボンを外してスカートのファスナーに細くしなやかな指をかける。
スカートのホックを外してファスナーを下すと、ブルーのプリーツスカートが賢一=まり子の足を撫でながら床に落ちていく。
純白のブラウスを脱いでブラジャーを外して・・・・賢一=まり子の目は、ある一か所にくぎ付けになった。
脱衣場所を兼ねた洗面所の一角・・・洗面台の鏡だ。
そこに映っているのは・・・・?

賢一は、思わず息を飲んだ。

そこには、ショーツだけを身に着けた美少女が映っている。

「これが・・・・ボク?」

自分のものとは思えない可愛らしい声・・・・そう、まり子の声で呟いた。
賢一=まり子の視線は、鏡にくぎ付けになっている。

大きな瞳。
艶やかな唇。
両手に収まりきらない形の良い胸の二つの膨らみと、ピンク色の乳輪。
キュッと引き締まった細いウエストと、ヒップに続くライン。
健康的な太腿と、そこから引き締まった脹脛から足首へ続く脚線美。
そして、ショーツに包まれた股間には、本来の賢一が持つはずの“象徴”の痕跡は全くない。

そう・・・今の賢一は、本人がどれだけ否定しようと、頭の上から足の先まで“まり子”になってしまったのだ。




賢一=まり子は、じっと鏡を見つめていた。
鏡を見つめているうちに胸の鼓動が高鳴り、呼吸が自然に荒くなっていく。

『いけない!』

賢一=まり子は、鏡から視線を逸らした。

『まり子の“裸”を見るなんて・・・・!』

幼馴染の裸を勝手にみるなんて・・・。
賢一は、自分の行動を恥じていた。

しかし・・・・今はとにかくお風呂に入らなければならない。
浴室のドアを開けて中に入ると、正面の鏡に賢一=まり子の一糸まとわぬ姿が映る。

『見てはいけない・・・・』

賢一は目を閉じてまり子の体を意識しないようにしながら体を洗い始めた。
しかしその手つきは、賢一の知らないうちにまり子の“慣れた手つき”になっていく。
長くしなやかな黒髪を洗っている時、

「まり子、着替えを置いておくわね・・・・」

ドアの向こうからトミの声が聞こえてきた。

「は〜い・・・・ありがとう!}

賢一=まり子が答えると、トミが嬉しそうに微笑みながら廊下を歩いて行く。
賢一はまり子の美しい髪をタオルで拭くと、バスタオルで体を隠しながら浴室を出た。





賢一=まり子は、“慣れた手つき”で体を拭いて、髪を乾かし、“まり子の手つき”でブラとショーツを身に着けた。
ピンク色のパジャマを着ると、リビングに向かって歩いて行く。
リビングでは、トミがテーブルの上に料理を並べていた。

「お腹が減ったでしょう? 晩御飯だよ・・・・」

微笑みながら料理を並べていく。
“まり子”が戻ってきたことがよほどうれしいのだろう。
しかし、その“まり子”は、実は隣に住む賢一なのだが・・・・トミはそんな事など知る由もない、いや、仮に知ったとしても信じないだろう。

賢一=まり子とトミが向かい合って夕食を食べている。
賢一もまり子の生前は、時々遊びに着て御馳走になったものだが、今食べている食事は食べ慣れたような・・・・それでいて懐かしいような記憶を感じていた。

この日のトミは、とにかくよく喋った。

まり子が亡くなって悲しみにくれた事・・・・。
そして、まり子の母親の死・・・・。

『そうだ・・・・』

賢一=まり子は、箸を止めてじっとトミを見つめている。

まり子が亡くなり山下家に残されたまり子の母親とトミが悲しみにくれていた時、今度はまり子の母親が看病疲れと・・・・いや、何よりもまり子を亡くした悲しみで体調を崩し、あっという間に帰らぬ人となった。
愛する孫と娘を失っても、トミは明るさを失わなかった・・・・隣に住む賢一は、トミの強さに驚いていたのだが・・・。

「まり子がいなくなってからね・・・・」

トミが遠くを見るような眼で賢一に語りかける。

「・・・一人で食べる食事は、美味しくなかったよ・・・」

トミが淋しそうな笑みを浮かべた。
賢一は何も言えずに、ただ頷くだけだった。
料理を口に運ぶが、次第に味を感じなくなってきた。

『おばあちゃんは、さびしかったんだ・・・・』

賢一は思った。 
しかし、隣に住んでいても自分はそれには気がつかなかった・・・・まり子がいなくなったのだから、自分が支えなければいけないのに。
賢一は、胸が苦しくなってきた。その時、

「でもね、今日はまり子が帰ってきてくれて・・・・久しぶりに美味しく食べているのよ」

「そうなんだ・・・・」

賢一=まり子は、可愛らしい微笑みを浮かべた。
料理を口に運ぶと、

「おばあちゃんのお料理、美味しいな・・・」

そう言って笑った。
トミの顔にも微笑みが浮かぶ。

「そう、じゃあ・・・・しっかり食べてね」

「うん・・・」

二人の笑い声がリビングに溢れる。

この日、山下家からは久しぶりの明るい笑い声が聞こえていた・・・・。



食事が終わると、トミと賢一=まり子が並んで食器の後片付けをしていた。
普段は片づけ物などはしない賢一だが、今夜はトミと並んで片づけ物をしていた。
トミは楽しそうに食器を洗い、手早く片付けていく。
その様子を見ている賢一=まり子も、自然に笑顔になっていた。

片づけ物を終わると、トミはお菓子とお茶を用意した。
賢一=まり子は、トミと向かい合うとお菓子を食べながら、トミと話を始めた。
トミが話をして賢一が聞き役になる・・・・トミはまり子との思い出を話し続けている。

「お隣の佐藤さんには、本当に良くしてもらってねえ・・・・」

そう言ったトミの顔に、少し悪戯っぽい微笑みが浮かんだ。

「そう言えば、まり子はお隣の賢一君のことが気になっていたわねえ・・・・」

そう言いながら、賢一=まり子の顔を覗き込んだ。
賢一=まり子の顔は、たちまち赤く染まっていった。



「そんなこと・・・」
「そんなこと・・・なの?」
トミが微笑みながら賢一=まり子を見つめている。
トミがクスクスと笑っている。

「私が見ていると『そんなこと』じゃないと思うけどねえ・・・」

トミが賢一=まり子の目を覗き込むように見つめている。
賢一=まり子は耳まで真っ赤になっていた。
トミが言っているのはまり子のことだ・・・・しかし、賢一はまるで自分の心・・・まり子への思いを見透かされたようで胸がドキドキしていた。
トミは笑いながら、

「賢一君はいい子だよ。 挨拶はきちんとしてくれるし、しっかりしているし・・・いい男の子だよ」

賢一=まり子は、頬を赤く染めてトミを見つめるだけだ。
トミがクスクス笑いながら、

「そう言えば中学生のころに、たばこを吸っている男の子に賢一君が注意をして、そのあと賢一君が『注意をしなければよかった』といったことに怒っていたわねえ・・・」

『アッ?!』
賢一の心が動揺する。

「『そんなことはない』男の子に、あんなに怒らないでしょう?」

トミが明るく笑った。

「もっと勇気を持ってくれれば・・・って言っていたものね・・・」

『まり子・・・・!!』

君は・・・僕のことを・・・・?
賢一の胸が熱くなる。
トミは微笑みを浮かべながら“まり子”を見つめている。

「・・・・?」

体に痛みが走る。
トミは“まり子”に気付かれないように、その右手をお腹にあてた。

「そろそろ・・・・寝ようか?」

トミは笑顔を作って“まり子”に言った。
賢一=まり子も頷いた。
二人は立ち上がると、トミの寝室に向かった。



「今夜は、一緒に寝ようか?」

トミが“まり子”に言った。
賢一=まり子が頷くと、二人は一つの布団に入った。
トミがじっと賢一=まり子の顔を見つめている。

「どうしたの?」

賢一=まり子が尋ねると、

「まり子と・・・また一緒に眠れるなんてねえ・・・・」

トミは小さく笑った。
賢一=まり子も笑う。

「ねえ・・・・“まり子”・・・?」

「なに?」

「子守歌を歌ってくれない・・・?」

「エッ?!」

「一緒に寝ていた時には、いつも歌ってくれたじゃない・・・・」

賢一は戸惑った。
一体・・・まり子は、トミにどんな子守歌を歌っていたのか?
とりあえず、思いついた歌を歌ってみたのだが・・・・。
次の瞬間、トミが笑いだしてしまった。

「まり子、どうしちゃったのよ・・・・・」

トミはしばらく、笑いが止まらないようだったが、

「いつも“チューリップの歌”を歌ってくれたじゃない・・・・・」

子供の時からずっと・・・・花壇のチューリップを育てながら、そして、一緒に眠りながら・・・・。
トミは目を細めながら、“まり子”の顔を見つめている。
愛おしそうに、まり子の美しい黒髪を優しく撫でると、

「ねえ、歌ってちょうだい・・・・」

賢一=まり子はうなずくと、

「咲いた、咲いた・・・・・♪」

トミの横顔を見つめながら歌を歌った・・・・・そう、“いつものまり子の歌声”でだ・・・・。
トミは、しばらく“まり子”を愛おしそうに見つめていたが、やがて瞳を閉じて軽い寝息を立て始めた。
賢一=まり子も、瞳を閉じた。

「ありがとう・・・・け・・・ん・・・いち・・く・ん・・・・」

「エッ?」

賢一=まり子が起き上った。
だが、トミは眠っているようだ。
改めて布団に入ったが、何かが引っ掛かる。
もう一度起き上がると、

「おばあちゃん・・・・」

トミに声をかけてみた。
しかし、トミは目を開けない。

「おばあちゃん!」

トミの体を強く揺すってみた。
しかし、トミは目を開けない。
賢一は胸騒ぎがして、思わず掌をトミの鼻にあててみた。
次の瞬間、賢一=まり子の顔から血の気が引いていく。
布団から飛び出ると、電話に駆け寄り119番に電話をした。

「救急車をお願いします、場所は・・・・・!!」

悲鳴のような声で電話をする賢一=まり子の体を、赤い光が包んでいく。
賢一は、それには全く気が付かなかった。



その日の空は、雲一つない快晴だった。
庭の花壇には、たくさんのチューリップが咲き誇っている。
トミの人柄だろうか・・・・・葬儀にはたくさんの人が参列をしていた。
賢一も、高校の制服を着て葬儀に参列をしていた。

両親も近所の人たちも、トミの親戚たちも、『亡くなったトミを見つけた』賢一を気遣ってくれていた。
救急隊は『女性が電話をかけてきた』と言ったのだが、『気が動転した賢一君の声が女の子の声に聞こえたのだろう』と周りの人たちは言っていた。
誰もが賢一に『大変だったね』と声をかけてくれるのだが、賢一は生返事で答えるだけだった。
そんな賢一を見て、『やっぱりショックだったんだね』とか『亡くなった人を見たのだから…仕方がないよ』と、周りは勝手に納得してしまったのだが・・・・。

『おばあちゃんは・・・・・ずっと一人でいて淋しかったんだ・・・・』
運び出される棺に、手を合わせながら賢一は思った。
『そして・・・・僕はまり子になった・・・・・』
唇をかみしめながら、棺を見る賢一。
『・・・・きっとまり子が・・・・・おばあちゃんを“迎えに”来たんだ・・・・・』
次の瞬間、賢一の中にある記憶が甦る。

「ありがとう・・・・け・・・ん・・・いち・・く・ん・・・・」

『まさか…?!』
おばあちゃんは、あの”まり子”が僕だと知っていたのでは・・・・?
賢一は、小さく首を振った。
いずれにしても、それを確かめることは、もうできない・・・・。



既に日が落ち、空には満月が輝いている。
山下家から、弔問客が去っていく。
「じゃあ、私たちもそろそろ・・・・」
賢一の父親が一礼すると、賢一たちを促して立ち上がった。
両親が先に歩き、その後を賢一が歩いていく。
山下家の門を出て、隣の自分の家の門に入った。
何気なく山下家の方に視線を向けると、庭の花壇に咲いているチューリップが、月明かりに照らされてまるで輝くように咲き誇っている。
トミがまり子と一緒に手入れをしていたチューリップ。
賢一の目が、少しずつ潤んでいく。


「咲いた・・咲いた・・・・・♪」

賢一の口が、チューリップの歌を口ずさむ。

「・・・どの花・・見ても・・・き・・れ・い・・だ・な・・・♪」

声を震わせながら歌い終えると、賢一は思わず俯いた・・・・肩が小さく震えている。
やがて顔を上げると、
「おやすみなさい、まり子、おばあちゃん・・・・・」
チューリップの花を見ながら、呟いた。



山下家の花壇の前に、白く光り輝く服を着た美女と少女が立ち、賢一を見つめている。
「賢一君・・・・」
まり子が、可愛らしい微笑みを賢一に向けながら呟いた。
その時、まり子の横に、二つの光が現れた、その輝きが収まった時に現れたのは・・・・。
「お母さん、おばあちゃん・・・・」
「まり子・・・・」
トミが優しく微笑みながら、まり子の頭を優しく撫でた。
その様子を見ながら、まり子の母親が優しく頷いた。
「さあ、帰りましょう・・・・」
美女が言うと、まり子の母親もトミも頷いた。
二人の体を光が包むと、その姿が消えていく。
まり子は・・・・その場を立ち去り難いのか、ずっと賢一の姿を見つめている。
美女は、そんなまり子を微笑みながら見つめていた。
その時、美女の横に光が現れた・・・・その光が収まると・・・・?
「聖母様!」
青年が現れ、タブレットPCの画面を指で撫でながら。、
「サミットや会議、シンポジウムのスケジュールが詰まっているのです、早くお帰りください!!」
青年がタブレットPCの画面を見せながら美女に詰め寄っている。
「それから、今後は妙なゲームをしないで下さいよ。僕たちがアフターケアをしなければいけないので、どれだけ大変か・・・・」
「はいはい、わかりました・・・・」
美女はまり子を見ると微笑みながら頷いた。
まり子も頷く。
美女は青年とともに光の中に姿を消していく。
まり子は、まだその場を立ち去り難いのか、賢一を見つめている。
夜の風が、まり子の着ている白い服を揺らしている。
まり子の中に、いろいろな思いが渦巻いている。
「ありがとう・・・・賢一君・・・・」
大きな瞳から、涙が月明かりに照らされて、まるで宝石のように輝きながら落ちていく。
まり子の体を、光の粒が包んでいく。
まり子が両手を口にあてた。


「大好きだったよ!!」


大きな声で叫んだ。

家に入ろうとした賢一が振り返る。

「・・・・?」

何かを感じたのだが・・・・。

「風・・・・か?」

賢一が微笑んだ。

彼の視線の先では、月明かりに照らされた色とりどりのチューリップが、彼に何かを語りかけるかのように、夜の風に揺れていた。







24時間 佐藤さんの場合
(おわり)



作者の逃げ馬です。
ずいぶん長い時間がかかってしまいましたが、何とかこの物語を完結させることができました。
逃げ馬の物語としては珍しく、この物語は最初に結末・・・・つまり、まり子にあのセリフを言わせるために物語を組み立てていきました。
プロットはできていたのですが、それに肉付けをしていくのが大変で・・・・書き手としてはちょっと大変な物語になりました(笑)
時間がかかる間に、天界の青年は分厚いファイルからタブレットPCにIT化していました(笑)
この青年は他の作品にも出てきますが、書き手としては「使いやすい」キャラで助かっています。

これでひとまず『宿題』の作品は終わりました。
これからは、また新しい作品を書いていきたいと思います。

それでは、今回も最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
また、次回作でお会いしましょう。

尚、この作品に登場をする団体・個人は実在のものとは関係のないことをお断りしておきます。



2012年11月25日

fumika 『たいせつな光』を聞きながら

逃げ馬














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