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この作品は、『僕は保母さん?』の後日談になります。



学校の聖母シリーズ

6月の空


企画・原案:HIRO
作:逃げ馬





6月

今日も空は雲に覆われ、しとしとと雨が降り、窓の外に見える園庭に水溜まりを作っていく。
島田翔子は、保育園の教室で子供達と遊びながら、その様子を見つめていた。

翔子が、この保育園に勤めるようになって一年余り。
ここで働く先生や職員達は、温かく彼女に接してくれている。
そのお陰で彼女は、気分良く仕事ができている。
何よりも、この保育園に預けられている子供達が、翔子を慕ってくれている。
それが翔子のやる気に火をつけ、さらに良い結果を出している。
大学生の就職活動中に、なかなか就職先が決まらず、未来が暗闇に閉ざされたように感じたのが嘘のような充実した毎日だ。
今は保育士として、毎日楽しく仕事をしている翔子だが、そんな彼女は、かつては男性だった。
いろいろな保育施設の就職試験を受けたものの連戦連敗。
この保育園では一週間、子供達と過ごしたが、やはり不採用になる・・・・・はずだった。
しかし、子供達と別れの挨拶をしていた時。彼の鍛え上げた男の肉体は、若い女性の身体になってしまった。
そのお陰で、今はこの保育園で働いている。
女性になってしまったばかりの頃は、戸惑うことばかりだった。
しかも、彼女が在籍していた大学は、剛気体育大学。
教員、職員から学生まで、全て男性という大学だ。
一応は男女共学なのだが、何故か学生は男性ばかり。
校門を一歩入れば、その理由はわかるのだが・・・・・。
女性になってしまった島田翔子は、学内では『幻の建物』と呼ばれていた女子寮で、卒業までの半年を過ごす事になったのだが、それは実にスリリングな日々となった。

まず、真っ先に起きたのは、大学の更衣室で彼女の着替えを見ようとする男達が、更衣室に押し寄せた事だ。
しかし、彼らは翔子の着替えシーンを見る前に、「偶然更衣室の前を通った」職員や教員によって、その場から追い払われた。
またある時は、目を血走らせたプロレスラー並みの体格の男が、後ろから翔子に抱きつこうと飛びかかった。
驚いた翔子は、その後に起こるであろう出来事を想像して、その表情が凍りついた。
しかし、その男は翔子に抱きつく前に、自分で転んで床で顔面を打ち、医務室に担ぎこまれた。
またある時は、女子寮の風呂に入っている翔子を見ようとした男子学生が、階段の踊り場から転落して、救急車で病院に運ばれた。

翔子から見れば女性になって、剛気体育大学で学ぶことは「野獣の群れ」に投げ込まれたようなものだが、「偶然の連続」で、度重なる「貞操の危機」を乗りきることができた。

大学を卒業後、この保育園で働いて一年余り。
翔子にとっては、男性だった頃からの念願の職場だ。
子供達の世話をして、日々その成長を見守る事が出来るのは、翔子にとっては大きな喜びだった。
今日はあいにくの雨。子供達を外で遊ばせる事ができないのは残念だが、部屋の中で本の読み聞かせやゲームをして遊び、今はみんながお昼寝をしている。
子供達の寝顔を見ている翔子の顔には、自然に微笑みが浮かぶ。
その時、
「島田先生?」
六歳児のグラスを担当している小原ひかる先生が、ドアを開けて小声で囁いた。
翔子は静かに立ち上がり、ドアからこちらを見ている小原先生に歩み寄った。
小原先生は翔子の耳元で囁いた。
「今夜、稲本先生と御飯に行くけど、先生もどう?」
今夜は特に予定があるわけではない・・・・・翔子が頷くと小原先生は、店を予約しておくと言って、事務所に向かって廊下を歩いて行く。
翔子は、その後ろ姿を見送ると、眠っている子供に静かに歩み寄ると、跳ね退けたブランケットを優しく掛け直してあげた。



その日の夜、島田翔子は先輩の保育士二人と一緒に街を歩いていた。
「今日のお店は、パスタもデザートも美味しいのよ」
そう言ったのは、稲本つかさ。女性の年齢に触れるのは失礼だが、彼女は36歳。翔子にとっては頼れる先輩だ。
「島田先生に、美味しいスイーツを食べてもらわないとね」
小原先生がニッコリ笑った。
小原ひかるは26歳。この保育園では、翔子から見れば2年先輩になる。
年齢が近いこともあり、仕事面でも、「女性に慣れていない」翔子にとってはプライベートな面でも、いろいろ相談できる相手だ。
幸い昼間に降っていた雨はあがり、夜の街には会社帰りのサラリーマンやOLが行き交い、部活帰りの高校生は、コンビニで買ったらしい唐揚げを口に頬張りながら歩いて行く。
翔子達の先に立って歩いていた稲本は、イタリアンレストランの扉を開けると、
「ここよ」
翔子達を招き入れた。
「いらっしゃいませ!」
ご予約は承っております・・・・・どうぞ、こちらへ・・・・・翔子達は席に案内されると、稲本先生が注文していたコース料理が運ばれてきた。
皿に綺麗に盛り付けられた前菜。
魚も、肉料理も、パスタも美味しかった。
「たまには美味しいものを食べて、気分転換をしないとね」
デザートのティラミスとレモンティーを楽しみながら、稲本先生が翔子達にウインクをしながら笑った。
さすがは稲本先生・・・・・忙しさと梅雨で気分が落ち込みそうな時に、絶妙なタイミングで気分転換に誘ってくれた。
「ありがとうございます」
翔子は心から感謝をして、先輩達に頭を下げた。



食事が終わりレストランを出ると、夜の暗い空から雨が降り始めた。
「また降りだしたね」
稲本先生が空を見ながら顔をしかめた。
「今日は、お疲れ様」
稲本先生と小原先生は、翔子と別れて傘をさすと、駅に向かって歩いて行く。
保育園の近くに部屋を借りている翔子は、ここから歩いて帰るのだ。
「お疲れ様でした」
翔子も挨拶をすると、赤い傘を広げて雨の街を歩き始めた。
雨の降りかたが、少しずつ激しくなってきた。
街を歩く人達も、足早に家路を急いでいる。
もうすぐマンションに着く・・・・・明日の準備もしないといけないな・・・・・翔子の足取りも、自然に速くなる。
翔子の横を路線バスが追い越して行き、スピードを落とすと、バス停で止まった。
バスから降りた乗客の一人が歩道を横切り、店の軒先に駆け込んだ。
バスがドアを閉めて、発車した。
翔子がバス停の前を歩き去ろうとした時、その乗客は、まだ店の軒先にいた。
乗客は背の高い、若い男だった。
男はハンカチで雨を拭きながら、雨が降りしきる夜の空を気にしている。
翔子は男性に歩み寄ると、
「この傘を使って下さい」
声をかけられた男性が、驚いたような視線を翔子に向けた。
「家が、すぐそこなので・・・・・」
翔子は、傘を押しつけるように男性に渡すと、トートバッグを頭の上に載せて傘の代わりにして、雨の中を駆け出した。
前から中年の女性が歩いてくる。
同じマンションに住む女性のようだ。
「あら、先生・・・・・今帰り? よく降るわねぇ」
たっぷりと話をしたいような女性の横を、翔子は、会釈をして駆け抜けた。
若い男は赤い傘を手に、駆け去る翔子の後ろ姿を見つめていたが、やがて中年の女性に声をかけた。
「あの・・・・・?」



翌日

昨夜の激しい雨はあがったが、空は今にも「泣き出しそうな」曇天だった。
島田翔子は、今日も保育園で、子供達の世話に追われている。
母親が帰ってしまった淋しさから、泣き出す子供。
おもちゃの取り合いで泣き出す子供。
それをたしなめる翔子が着けているエプロンを掴んで、遊んでくれとせがむ子供。
今日も教室は賑やかだ。
悪戦苦闘している翔子の肩を、誰かが突っついた。
振り返ると、稲本先生がニッコリ笑いながら翔子の奮闘ぶりを見ている。
「こら! おもちゃは仲良く交代で遊びなさい! 出来ないなら、片付けなさい!」
稲本先生が子供達に言うと、取り合いをしていた子供たちは、たちまち大人しくなってしまった。
稲本先生は、それを見届けると、翔子に遊んでくれとせがむ男の子を、ひょいと抱えあげた。
ボブカットの髪が揺れている。
「島田先生に、お客さんが来ているわよ」
「わたしに・・・・・ですか?」
「そう・・・・・若い男性」
そう言う稲本先生の目は、翔子の戸惑いの表情を興味津々と言った目で見つめていた。



おそらく、この時の翔子の戸惑いは、稲本先生の想像とは、大きく違っていただろう。
島田翔子は、あの剛気体育大学の卒業生。同期生は全て男性・・・・・そう、若い男性だ。
「誰だろう?」
いったい誰が翔子を訪ねてきたのか?
保育園の事務所に戻ってきた翔子は、お茶を出されて椅子に腰をかけている若い男性の背中を見た。
白いワイシャツとグレーのスラックス姿の若い男性。
背は高そうだが、剛気体育大学生のような「鍛え上げた男の肉体」と言った感じではない。
「お待たせしまし・・・・・」
声をかけながら男性の前に回った翔子は、
「アッ?!」
思わず声をあげた。
椅子に座っていたのは、昨夜、雨に降られて雨宿りをしていた青年だった。
「昨夜は、ありがとうございました」
おかげで助かりました・・・・・青年は、翔子が渡した赤い傘を差し出しながら礼を言った。
「わざわざ、傘を返すために?」
「はい・・・・・」
青年が、その顔に微笑みを浮かべた。
「でも、なぜわたしがここで働いていると?」
首を傾げる翔子に青年は、
「昨夜通りかかったご婦人と、あなたが知り合いだったようなので、あのご婦人に聞きました」
青年が答えた。
「昨夜はお礼も言えず、失礼しました」
青年は一礼すると、
「僕は片岡修二といいます、昨夜はありがとうございました」
青年は名刺を差し出した。
「本当に、ありがとうございました」
失礼します・・・・・そう言うなり、青年は事務所を出ていった。
後には名刺を手に、呆然としている翔子が残された。
その翔子を、稲本先生と小原先生が興味津々といった表情で見つめていた。

当然ながら、青年が帰った後、島田翔子は保育園の先生から事務員達にまで質問攻めに合うことになった。
翔子を椅子に座らせて、その周りを稲本先生を中心に、先生や事務員達が取り囲む。
まるで芸能人の記者会見のようだ。
あの青年とは、いつ知り合ったのか?
彼の住んでいる場所は?
あの青年の勤め先は?
傘を渡しただけ? 本当に? 初対面の相手に傘を貸すかな?
容赦のない質問が、翔子に集中する。
稲本先生が、前に座る翔子の手元に握られた紙片に目を止めた。
紙片をサッと取り上げると、翔子が「アッ?!」と声をあげた。
稲本先生は紙片を見ると、
「これ、あの彼の名刺じゃない?」
稲本先生が、大きく目を見開いた。
「理学博士 東都大学 生物科学研究所 研究員って・・・・・凄い人じゃないの」
翔子を囲んでいた人達がどよめく。
東都大学だって・・・・・国立の最高の大学だよ。
結構イケメンだったし、頭も良いなんて凄いね・・・・・周りは賑やかだが翔子は、少しでも早くここから立ち去りたかった。
小原先生が、名刺の一点で視線が止まった。
「これ・・・・・メッセージじゃないですか?」
エッ・・・・・?と言う声と共に、皆の視線が名刺に集中する。
翔子は、名刺を取り返そうとしたが、小原先生が、
「今度、お礼にお食事をご馳走させて下さいだって!」
オーッ?!と言う声と共に、周りが一気に盛り上がる。
凄いじゃない。
これは、行くしかないよね。
そんな中で翔子は、状況を理解出来ずに呆然としていた。



マンションの部屋のドアが開くと、島田翔子はトートバッグを机の上に置いて、崩れるようにベッドの上に、うつ伏せに倒れこんだ。
彼女はベッドの上で「ウ〜ン」と唸りながら動かない。
今日は、翔子にとっては『初体験』の出来事が多すぎた。
翔子がクルリと体を回転させて、今度は仰向けになり、天井を見上げながら、大きなため息をついた。
あの時、なぜわたしは、あの人に傘を渡したのだろう?
そして彼は何故、傘一本を返すために、わざわざ翔子の保育園までやって来てくれたのだろう?
そして、保育園の仲間たちの、あの喜びよう・・・・・女性に変身してしまったとはいえ、翔子には男性としての意識が強く残っている・・・・・戸惑わずにはいられなかった。
小さなため息をつくと、翔子は体を起こして立ち上がった。
こんな時には、シャワーを浴びてリフレッシュするのが一番だ。それから考えよう・・・・・翔子はバスルームに向かった。



翌日

空は、今にも雨が降りだしそうな曇天だった。
島田翔子は、いつものように、白いブラウスと黒いフレアスカートというスタイルで、背筋をピンと伸ばして保育園に向かって歩いて行く。
彼女の姿勢の良さは、あの剛気体育大学生時代の名残だろうか?
保育園の事務所に入ると、
「島田先生」
小原先生が、翔子に駆け寄ってきた。
彼女は、翔子の耳に囁いた。
「昨日の彼には、電話をしたの?」
たちまち翔子の顔が、耳まで赤くなった。
「そんな・・・・・電話なんて、しませんよ」
小原先生は、目を大きく見開き、信じられないといったように首を振った。
「余計な事は、言う必要はないのよ・・・・・」
稲本先生が、翔子の肩をポンと叩くと、
「昨日は、わざわざ傘を持って来てくれてありがとうございました・・・・・それでいいのよ・・・・・」
稲本先生は、翔子にウインクすると、教室に向かった。
「そうか・・・・・そうですね」
ありがとうございます・・・・・翔子は稲本先生の背中に頭を下げた。
そんな翔子を、小原先生は笑いをこらえながら見つめている。

その日の夜、島田翔子は、手にしたスマートホンを、じっと睨みつけていた。
既に30分以上、この状態だ。
ただ電話をして、お礼を言えばよい・・・・・そう思っても、いざとなると電話をかける事が出来なかった。
翔子が大きく深呼吸をした。
「お礼を言うだけだから・・・・・」
まるで魔法の呪文のように自分に言い聞かせると、名刺に書かれた番号を押していく。
電話を耳にあてた。
コール音が鳴っている。
一回・・・・・二回・・・・・三回・・・・・。
それはまるで、緊張をしている翔子の心臓の鼓動のようだった。
もう切ろうか・・・・・翔子が思ったその時、コール音が止まった。
「もしもし、片岡です」
「・・・・・」
翔子は、スマートホンを耳にあてたまま、何も言うことが出来なかった。
「もしもし?」
電話の向こう側から、あの青年の声が聞こえる。
「もしもし・・・・・しま・・・だ・・・・・ですが?」
緊張でぎこちなかったが、何とか話すことができた。
「ああ・・・・・島田さんですか? お電話いただいて、ありがとうございます」
片岡の声が、電話の向こうで弾んでいる。
「こちらこそ・・・・・わざわざ保育園にまで傘を持って来ていただいて・・・・・」
ありがとうございました・・・・・翔子は、ようやく自然に話すことができた。


「こちらこそ・・・・・あの時に傘を貸していただいて・・・・・」
おかげで助かりました・・・・・あの夜は一晩中雨でしたからね・・・・・電話の向こうで、片岡が笑っている。
その声を聴いていると、翔子も自然に微笑みが浮かんでくる。
「お役にたったようで、良かったです」
翔子が言った。最初とは違い、いつもの明るい声になっている。
「嬉しかったですよ・・・・・まだまだ世の中、捨てたものじゃないな・・・・・なんて思いましたね」
片岡が明るく笑った。
ところで・・・・・と、片岡が電話の向こうで言った。
「先日のお礼に、お食事でもどうですか?」
翔子がスマートホンを握る手に、力が入った。
胸の鼓動が高まる。
「貧乏学者なので、高級なお店は無理ですが・・・・・」
片岡は、相変わらず明るく話している。
「はい・・・・・」
翔子が言うと、
「嬉しいな・・・・・ありがとうございます!」
片岡は、食事に行く日と時間を打ち合わせると、
「ありがとう・・・・・楽しみにしています」
と言って電話を切った。
翔子は・・・・・スマートホンを両手で持ったまま、その場を動けない。
何故、食事に行くなんて言ったのだろう?
お礼を言うだけのはずだったのに?
翔子は、窓の外に視線を移した。
雲の切れ間から月が現れ、月明かりが翔子を照らしていた。



数日後の夜、島田翔子は片岡修二と会うために、雨の降る都心のターミナル駅にいた。
週末の夜のターミナル駅は、家路を急ぐサラリーマンや、何処かに遊びに行くのだろうか? おめかしをしたOLのグループ達が、賑やかに行き交っている。
その中で翔子は、赤い傘を手にして立っていた。
翔子の前を、大勢の人たちが歩いて行く。
その時、
「・・・・・?」
誰かが翔子の肩を叩いた。
振り返ると、がっしりとした男性の胸と首が・・・・・?
ふと見上げると、先日、保育園に来た青年・・・・・片岡修二が翔子に笑顔を浮かべながら、翔子を見下ろしていた。
「こんばんは! 来てくれたのですね」
すっぽかされたら、どうしようかと思っていましたよ・・・・・片岡が明るく笑った。
「そんなこと・・・・・しませんよ」
翔子も明るく笑った。
「じゃあ、行きましょう」
片岡が先に立って歩いて行く。
翔子は片岡の横に並ぶと赤い傘をさして、一緒に雨の降る夜の街を歩いて行った。

その夜の食事は、片岡が予約をしたレストランでフランス料理を食べた。
「貧乏学者には、敷居が高いですけどね」
先輩に連れて来てもらったことがあって、この店はリーズナブルなんですよ・・・・・片岡がワインを片手に持って言った。
それで、今日はスーツにネクタイ姿だったのか・・・・・翔子もワイングラスを持って頷いた。
先輩に紹介された店と言うだけあって、料理は美味かった。
そして、ワインを飲みながら二人は、それぞれの話題を話していた。
翔子は、保育園の子供たちとの日常を・・・・・。
片岡は大学生時代の話から、イギリスでの留学生活や失敗談など、固くなりがちな話題を面白おかしく話して、翔子を笑わせる。
二人は時間を忘れて、楽しい時間を過ごしていた。

「今日は、ご馳走さまでした」
二人は今、駅の改札口の前にいる。
翔子は、遠慮をして断ったのだが、片岡が「夜は危ないから」と、店を出てから駅まで送ってきたのだ。
かつては、剛気体育大学で鍛え上げた肉体を持つ男子大学生だった翔子にすれば、「男に守ってもらう」というのは、心中は複雑だった。
「こちらこそ・・・・・今夜は楽しかったです」
片岡が言い、二人の間に沈黙が訪れる。
二人の耳に聞こえるのは、駅のコンコースに流れるアナウンスと、行き交う人の足音だけだ。
否、二人には、何も聞こえてはいなかったのかもしれない。
二人は見つめ合い、そして笑った。
「それでは、これで・・・・・」
送っていただいて、ありがとうございました。
翔子が礼を言い、改札口に向かって歩き出した。
翔子の胸の中に、今まで感じた事のない感情が生まれていた。
振り返ろうとしたその時、
「あの・・・・・?」
後ろから、片岡が声をかけた。
翔子が振り返る。
「また・・・・・電話をしても・・・・・いいかな?」
あの人は・・・・・照れている・・・・・翔子は、そんな片岡に好感を持った。
「はい!」
二人が微笑む。



それから二人は電話をしたり、一緒に出かけたりしながら、二人で過ごす時間を作って行った。
研究生活で忙しい片岡が、翔子と会うために時間を作っている・・・・・翔子は、それがわかっているだけに、なんとかその気持ちに応えようと、慣れない手つきで弁当を作って持って行った。
保育園の先生達は、何も言わない。
しかし彼女たちは、どのお店の何が美味しいなどの情報をくれたり、料理のレシピを教えてくれたり、年齢の近い小原先生は、「一緒に服を買いに行こう」と、翔子を連れ出し、翔子のスタイルが引き立つ服を選んでくれた。

そんな、ある日・・・・・。



「・・・・・今日は、僕の家で夕食を食べないか?」
映画館を出てから修二に言われ、翔子の頭は目まぐるしく回転した。
「それって・・・・・?」
「僕の家族と一緒に、夕食を食べないか?」
黙りこんだ翔子に、修二は、
「君ならば、自信を持って僕の家族に紹介できるよ・・・・・」
素晴らしい女性だろ・・・・・ってね・・・・・修二が照れくさそうに笑った。
素晴らしい女性・・・・・言われた翔子には、女性と言われることに対する微かな抵抗感と、素晴らしい女性と言われたことに対する喜びがあった。
「どうかな?」
黙りこんだままの翔子に、修二は心配そうに尋ねた。
「・・・・・」
翔子は、黙って頷いた。
「良かった」
修二は、ホッとしたように、翔子に笑顔を向けた。
さぁ・・・・・行こう! 修二が歩き出した。
翔子も並んで歩いて行く。
翔子が、修二の横顔をチラッと見ると、彼は嬉しさを隠しきれないといった笑顔だ。
その笑顔を見ていると、翔子もなぜか満ち足りた気持ちになって、自然に笑顔になって歩いていた。



片岡修二の実家は、郊外の新興住宅地にあった。
碁盤の目のように整然と造成された街に、似たようなデザインの家がずらりと並んでいる。
その中の一軒が、片岡家だった。
家に入ると、上品な中年女性が翔子を迎えてくれた。修二の母親だ。
緊張しながら挨拶をする翔子に、スリッパを並べながら、
「遠いところをわざわざ来てくれて、ありがとう」
話はいつも、修二から聞いていますよ・・・・・さあ、あがって下さい・・・・・と、翔子に優しく微笑んだ。
「さあ・・・・・」
修二にも促されて、翔子はようやく、
「お邪魔します」
靴を脱ぎ、スリッパを履いた。
「さあ・・・・・どうぞ」
修二が翔子を、片岡家のリビングに案内した。
人の気配を感じたのだろうか? 書斎から頭髪が半分以上白くなった、修二の父親が出てきたところだった。
「ようこそ! さあ、かけて下さい」
父親は手で、翔子にソファーに座るように促した。
「翔子さんは、コーヒーと紅茶、どちらをお飲みになる?」
母親が尋ねた。
「紅茶をいただきます」
わたしもお手伝いします・・・・・と、翔子が腰を浮かせると、座っていてと、修二の母親が制した。
修二が翔子の隣に腰を下ろしながら、
「恭平は?」
母親に尋ねた。
「部屋で寝ているわ」
そう言うと母親は、台所に向かった。
「練習から帰ると、部屋に入ったままだ」
父親が苦笑いした。
「相当、練習が厳しいようだね」
修二も笑った。
「恭平さんは・・・・・修二さんの弟さん?」
翔子が小首を傾げた。
「うん・・・・・高校で柔道部に入っているんだけど、全国大会にでるような学校だけに、練習は厳しいみたい」
修二が言うと、
「オッ? 噂をすれば・・・・・?」
翔子が振り向くと、リビングの入口に大男が立っていた。
身長は翔子から見れば背が高いと思う180cmの修二よりさらに高い・・・・・190cm近いかもしれない。
Tシャツの袖から突き出た丸太のように太い腕。
厚い胸板。短パンから伸びる毛むくじゃらの太い足。
かつて翔子が剛気体育大学で、よく見かけた「柔道部員」の体格だ。
「彼は強いぞ・・・・・」
目の前で翔子をじっと見ている大男を見ながら思った。
「この人は・・・・・?」
大男・・・・・片岡恭平が尋ねた。
修二が紹介するより先に、
「はじめまして、島田翔子といいます」
翔子がソファーから立ち上がって挨拶をすると、
「どうも・・・・・」
恭平がペコリと頭を下げる。
「なんだ、その挨拶は?」
父親が顔をしかめ、
「素敵なお嬢さんでしょう」
と、母親は微笑む。
翔子は、剛気体育大学時代によく見た「体育会の男のぎこちない挨拶」を久しぶりに見て、思わず両手で口を押さえてクスクスと笑っている。
女性が自分を見て笑っている・・・・・恭平は、翔子の可愛らしい笑顔を見て、真っ赤になっている。
「早く座りなさい、ご飯にするわよ」
突っ立ったままの恭平を、呆れたように見ていた母親に声をかけられ、恭平は我に帰った。
あわててリビングを見回した。空いている場所は、翔子の右隣だ。
恭平がぎこちなく翔子の隣に座った。
「柔道部の練習は、厳しい?」
翔子に話しかけられ、恭平の顔が再び赤くなる。
テーブルには修二の母親が、翔子をもてなすために、腕によりをかけて作った料理がならんだ。
修二の父親が、ビールの栓を抜くと、まず翔子に・・・・・そして、修二のコップにビールを注いだ。
そして、自分のコップに手酌で注ごうとするのを見た翔子は、
「それは、いけません!」
と、修二の父親の手を押さえビール瓶を受け取ると、父親が手にしたコップにビールを注いだ。
父親の顔に笑みが浮かび、注ぎ終わると、みんながコップを手にした。
「翔子さん、ようこそ片岡家へ!」
乾杯!・・・・・修二の父親の音頭で、皆が乾杯をした。
楽しそうに家族とコップを合わせる翔子の横顔を、ジュースの入ったコップを手にした恭平が、眩しそうに見つめていた。

修二の母親の手料理は、どれも美味しいものだった。
これだけの料理を自分で作ると・・・・・どれだけの時間と手間がかかるのだろうか?
保育園で働いている翔子から見れば、このテーブルに並んでいる料理を見ただけで、修二が母親に、どれだけ大切に育てられたか理解できた。
そして、その家族は今、修二が連れて来た自分を温かく迎えてくれている。
食事中に修二の両親は、翔子に仕事や家族の事を『さりげなく』尋ねてきた。
翔子は、その質問に誠実に答えた。
修二は、翔子に自分の家族の紹介し、その中にそれぞれのトピックを面白おかしく織り混ぜて、場の雰囲気を和ませる。
弟の恭平は、その肉体を維持するためにエネルギーの補給・・・・・つまり、テーブルに並んだ料理を黙々と口に運んでいた。
ただ彼にとって、いつもと異なるのは、自分の隣に若い女性が座っている事だろう。
彼は食事中に、何度も視線を隣に座った翔子に向けてしまっている。
夕食は最後に修二の母親が焼いた手作りケーキと、翔子にはレモンティーが出されるまで、和やかに続いた。

時間は、たちまち過ぎて行った。
翔子が片岡家から帰る時には、修二の家族が全員で玄関まで見送りに出てきた。
「ぜひ、またいらしてね」
修二の母親が言うと、
「ありがとうございます・・・・・ごちそうさまでした」
と、翔子がお礼を言った。
修二が翔子を駅まで送って行くと言って靴を履き、翔子に、
「じゃあ、行こう」
と促した。
翔子は、「それでは・・・・・」と、一礼すると、修二と一緒に玄関を出た。
修二の両親が翔子に小さく手を振った。
その両親の後ろから、大きな体の恭平が、翔子をじっと見つめていた。

「今日は、ありがとう」
修二は駅の改札口まで翔子を送ってきた。
「うちの家族も喜んでいたよ」
来てくれて良かった・・・・・修二が笑った。
「母も言っていたけど、ぜひ、また来てくれよ」
修二の言葉に、翔子は微かに頬を赤らめた。
「・・・・・うん・・・・・」
翔子は頷くと、
「じゃあ、またね」
小さく手を振り、改札口を通った。
その後ろ姿を、修二が淋しそうに見つめていた。

その頃、片岡家の二階にある恭平の部屋では、ベッドに大男が仰向けに倒れ、天井を睨んでいた。
綺麗な人だった・・・・・恭平は思った。
彼の前に突然現れた、若くて美しい女性。
いろいろと話してみたいとは思っても、柔道の試合で見せるような積極的な攻撃は、今日の彼からは消えていた。
何も言えず、ただ翔子の横顔を見つめているだけで、むなしく時間が過ぎて行った。
柔道の試合ならば審判から、もう少し積極的に攻めろと『指導』が入っていただろう。
「兄貴・・・・・」
恭平は、我知らず呟いた。
兄貴は・・・・・いったいどこで、彼女と知り合ったのだろう?
恭平の両親と、楽しそうに話す翔子と、それを嬉しそうに見つめる彼の兄・・・・・修二。
もう寝よう・・・・・恭平は布団を被ったが、胸のモヤモヤ感は消えない。
布団の上で、何度も寝返りをうつ・・・・・彼にとっては、長い夜の始まりだった・・・・・。



それから修二は度々、翔子を実家に連れてきた。
逆に翔子も、修二を彼女の両親のもとに連れて行った。
元は「男性」であった翔子は、彼女が男性を連れて来て、両親がどのような反応をするのか心配だったが、修二を紹介すると彼女の両親は「立派な男性だ」と、喜んでくれた。
何が起こるのかと心配をしていた翔子にすれば、拍子抜けだったが・・・・・。



雨がしとしとと降る街を、赤い傘が歩いて行く。

島田翔子は、ケーキの入った紙箱を手に、傘をさしながら、修二の家に向かっていた。
彼女は雲に覆われた空を見ながら、小さなため息をついた。
天気予報によると、今後一週間は、曇りか雨の天気だそうだ。
よく降る雨だな・・・・・翔子は、この日二度目のため息をつき、片岡家のインターホンのボタンを押した。

この日も修二と彼の両親は、翔子を歓迎してくれた。
特に修二の母親は、翔子をまるで、自分の娘が家に帰って来たかのように、歓迎してくれるのだ。
彼女は翔子と一緒に台所に立ち、コーヒーや紅茶を淹れて、片岡家の『お茶の時間』が始まった。
テーブルにはコーヒーや紅茶、そして翔子が持って来たケーキが並んでいる。
「さあ、いただきましょう」
修二の母親が声をかけると、
「美味しそうなケーキだな」
修二の父親は、フォークを手にして言った。
「それは、翔子さんが選んでくれたケーキだもの」
「それは、そうだな」
二人が笑い出す。
両親の言葉を聞いた、修二と翔子は、顔を見合わせ・・・・・そして、微笑む。
翔子は、ある事に気がついた。
「恭平くんは?」
「恭平は、今日も練習だよ」
修二が、ケーキを口に運びながら答えた。
「どうかしたの?」
修二が首を傾げた。
「何度かお邪魔してるけど、恭平くんがいたのは、初めて来た時だけだから・・・・・」
避けられているのかな・・・・・と・・・・・俯いた翔子に、
「考え過ぎだよ」
修二が笑った。
「あの子は、柔道ばかりしているからね」
心配しなくて大丈夫・・・・・と、修二の母親が言った。
しばらく四人で、いつものように話をしていると玄関から、
「ただいま」
と、太い声が聞こえてきた。
「帰ってきたわよ」
修二の母親は、翔子に声をかけて席をたった。
修二が翔子に頷くと、彼女も席を立ち、母親と一緒に玄関に向かった。
玄関では、制服姿の恭平が、靴を脱いでいるところだった。
「おかえり」
母親が声をかけると、
「ただいま」
振り向きもせずに、太い声で恭平が答える。
母親は、翔子を見ながら肩をすくめた。
いつもこうなのよ・・・・・そう言っているようだった。
靴を脱いで、恭平がこちらを振り返った。
翔子と目があった。
「アッ・・・・・?」
恭平が、声にならない声をあげた。
「お帰りなさい」
翔子が優しく声をかけると、
「た・・・・・ただいま・・・・・」
ぎこちなく言った後、恭平の顔は、たちまち真っ赤になってしまった。
柔道着の入った大きなバッグを手にすると、俯き気味に廊下を歩き出す。
「久しぶりね・・・・・部活、頑張ってる?」
翔子が明るく尋ねても、
「・・・・・はい・・・・・」
気のない返事しか帰ってこない。
「こら! 翔子さんは、あなたを心配してくれているのよ・・・・・」
ごめんなさいね・・・・・こんな子で・・・・・修二の母親が苦笑いしている。
翔子は頷いたが、二人の姿がリビングに消えると、小さなため息をついた。



その日の夜、いつものように修二は翔子を「駅まで送る」と言って、家を出てきた。
雨があがり、空には月が出ている。
明日は晴れるのかな・・・・・翔子は思った・・・・・晴れてくれれば、子供たちを思う存分、外で遊ばせることができる・・・・・子供たちは、どれだけ喜ぶだろう?・・・・・そう考えていると、翔子は自然に笑顔になってくる。
片岡修二は、その笑顔を見つめていた。
翔子の持つ傘に目をとめた。
「あの日・・・・・君に貸してもらったのは、その傘だよね」
「そうよ・・・・・」
翔子は、微笑みながら傘を開いた。
月明かりが、赤い傘の花を照らしている。
「その傘が、僕と君が出会うきっかけを作ってくれたんだね・・・・・」
「そうね・・・・・あの時は、まさかこんな事になるとは思わなかったけど・・・・・」
翔子は傘を閉じると、どこか遠くを見る目で言った。
その横顔を見つめている修二は迷った。
そして、
「どうしたの?」
修二が、翔子の手首を掴んで走り出した。
どうしたのかと戸惑う翔子を引っ張るように、公園に連れてきた。
月明かりと街灯の光に照らされた夜の公園には、人影はない。
修二は翔子の前に立つと、彼女の目を見て、
「あの夜、君に初めて会った時、何かを感じたんだ・・・・・そして、今まで君という人を見て、確信した・・・・・」
修二が翔子の小さな肩を掴んだ。
「これから一緒に人生を歩いて行く人だと・・・・・」
翔子は、修二の顔を見上げながら、胸が高鳴った・・・・・まさか・・・・・という思いと、心の中で何かを期待している自分がいた。
「結婚・・・・・してくれないか?」
修二の言葉を聞いた翔子の大きな瞳が、たちまち涙で潤んでいく。
何かを言いたいのだが、言葉にすることができない。
翔子は、涙で濡れた顔に微笑みを浮かべ、修二に頷いた。
修二の大きな体が、小柄な翔子の体を抱きしめた。
翔子の手から、赤い傘が離れ、小さな音をたてて落ちた。
翔子の細い腕が、修二の背中にまわる。
翔子は思った・・・・・今の自分は女性・・・・・これから彼と共に歩き、時に護られる存在に変わったのだ・・・・・と・・・・・。



島田翔子が、あの青年からのプロポーズを受けた。
その情報は、どんな高速通信でも対応できないほどのスピードで、保育園のスタッフたちに広まった。
「おめでとう!」
「素敵な彼だね!」
「羨ましいなぁ・・・・・」
皆が、あらゆる言葉で翔子を祝福してくれた。
小原先生は、うっすら涙ぐみながら、「良かったね・・・・・」と言ったきり、翔子の顔を微笑みを浮かべながら見つめたまま、言葉にならないようだった。
稲本先生は、
「よし!」
と言うなり翔子の肩をポンと叩くと、
「二人で頑張れ!」
と言って、彼女にウインクした。
翔子は、彼女が女性になってから、多くの人たちに見守られていたことを実感していた。

それからしばらくは、翔子と修二は、結婚に向けてスケジュールの打ち合わせや、改めてお互いの家族に挨拶に出かけたり、二人の新居の準備など、様々な用事に追われる事となった。
その多忙な毎日の中でも、彼女たちは時間を作り、二人の時間を過ごしていた。
しかし、そんな中で、一人浮かない顔をしていた男がいた。

修二の弟・・・・・片岡恭平だ。



その日、島田翔子は、修二の母親と一緒に片岡家の台所に立っていた。
「翔子さんも、ここで私たちと一緒に住めばよかったのに・・・・・」
修二の母親が、キャベツを刻みながら言った。
この言葉を聞くのは、もう何度めだろうか・・・・・翔子は軽く肩をすくめると、
「修二さんと住む場所は、すぐ近くです・・・・・私たちもお邪魔しますし、お母さんたちも遊びに来て下さいね」
翔子が微笑みながら言うと、母親も頷いた。
「さあ、恭平を呼んできてもらえるかな?」
母親に言われ、翔子は台所を離れ、階段をあがり二階に上がった。
今夜は修二と彼の父親は、仕事で遅くなる。
夕食は彼の母親と恭平・・・・・三人で食べることになる。
恭平の部屋のドアをノックすると、
「ハイ?」
部屋の中から、太い声が聞こえてきた。
「恭平くん、ご飯ができたわよ」
部屋の中から反応はない。
「恭平くん?」
「行くよ」
中からぶっきらぼうな言葉が帰ってきた。
「待ってるからね・・・・・」
翔子は明るく言うと、ドアの前から離れて階段を降りていく。
途中で立ち止まり、恭平の部屋を振り返るが、ドアが開く気配はない。
翔子は小さなため息をつくと、階段を降りていった。
翔子が片岡家を訪れるようになっても、恭平は翔子とあまり話そうとはしなかった。
そして、それは翔子と修二の結婚が決まっても・・・・・つまり、彼女が「姉」になると決まってからも変わらなかった。
翔子は、なんとか彼の心を開こうと、食事中に会話の話題を振ったり、修二と「三人で」出かけようとしたこともあった。
修二も彼女の気持ちを察してくれたのか、「三人で」出かけることを快くOKしてくれたのだが、肝心な恭平が、
「今日は疲れているから」
と、一緒に出かけようとはしないのだ。
恭平の彼女に対する反応は、翔子にとっては、大きな不安となっていた。

リビングで翔子と母親が待っていると、しばらくしてから恭平が二階から降りてきた。
恭平が自分の「定位置」に座ると、
「いただきます・・・・・」
箸をとり、黙々と夕食を食べ始めた。
その様子を、母親が睨み付けている。
まずいな・・・・・翔子は雰囲気を変えようと、
「お母さん、わたしたちもいただきましょう・・・・・」
微笑みながら、箸を手にしたのだが、
「恭平!」
母親の鋭い声が、リビングルームに響いた。
「どうして、翔子さんにそんな態度をとるの?!」
「お母さん?!」
いいですから・・・・・と、翔子は止めようとするのだが、
「翔子さんは、あなたとわかりあいたい、仲良くしたいと思ってくれているのに、あなたは・・・・・」
母親も、これまでの恭平の態度が親として我慢出来なかったのだろう、激しい口調で恭平を責めた。
突然、恭平は立ち上がると、足を踏み鳴らしてリビングルームを出て階段を二階に上がって行く。
「恭平くん?!」
翔子が立ち上がろうとするのを、
「翔子さん!」
いいのよ・・・・・と、母親は首を振った。
二階から人が降りてくる気配がした。
足音は玄関に向かい、やがてドアの音が聞こえた。
翔子が不安そうに母親を見た。
「男の子は、こんなものよ」
大丈夫・・・・・と、母親は笑っていた。

やがて、修二と父親が帰宅してきた。
修二は、翔子の不安そうな顔を見て、いったい何が起きたのかと心配していたが、母親から説明を受けると、
「大丈夫・・・・・心配ないよ」
と言って、翔子の肩をポンと叩いた。
リビングルームでは、修二と父親の遅い夕食が始まったようだ。
翔子は恭平が心配で、しばらくは玄関で立ち尽くしていたが、やがて、修二に呼ばれてリビングルームへ歩いて行った。



片岡恭平は、雨の中を傘もささずに歩いていた。
なせ、あんな真似をしたのだろう・・・・・夕食の時のやり取りを思い出すと、恭平は自己嫌悪になった。
自分で自分の気持ちがわからない・・・・・それが、今の恭平を一番言い当てた言葉だろう。
雨の中を、大きな体を揺らしながら歩いていると、夜の暗闇の中に明かりの点いている建物があった。
あの庇の下で雨宿りをしよう・・・・・恭平は、明かりに向かって足早に歩いて行った。
明かりが点いていたのは、古びた喫茶店だった。
恭平は、喫茶店の軒下に入ると、濡れた顔や腕を、ハンカチで拭った。
その時、喫茶店のドアが開き、中から女の子が顔を出した。
彼女は不思議そうに、恭平を見つめている。
「どうされましたか?」
彼女に尋ねられて、恭平は困惑した。
家を飛び出した・・・・・なんて言うわけにはいかないだろう。この場合には・・・・・?
「歩いていたら、雨に降られてしまってね・・・・・ちょっと雨宿りをさせてもらっています」
良い答えだ・・・・・恭平は、自分で満足したのだが、彼女は、クスクスと笑っている。
「それは大変でしたね・・・・・今朝は朝から雨が降っていましたから・・・・・」
体が冷えますよ、中に入って下さい・・・・・そう言うと彼女は、恭平を店の中に招き入れた。



喫茶店の店内は、外と同様に風格さえ感じられる内装だった。
「ちょっと待っていて下さいね・・・・・」
彼女は店の奥からタオルを持ってくると、恭平に手渡した。
「ありがとう」
恭平は彼女に礼を言うと、タオルを受け取り、濡れた髪や腕を拭った。
店内にはカウンターと四人掛けのテーブル席があった。
しかし、どれも空席で、店内には他の客はいない。
恭平は、カウンターの向こう側で、コーヒーカップを洗っている女の子に視線を向けた。
白く細い指は、忙しそうに食器を洗っている。
肩にかかるほどの長さの黒髪が、彼女が首を動かす度に揺れている。
彼女が恭平に視線を向けた。
大きな瞳がこちらを見ている。
彼女は、高校生くらいかな・・・・・ここでバイトをしているのかな・・・・・恭平は一瞬、そんなことを思ったのだが・・・・・。
「何か・・・・・?」
いざ、彼女に尋ねられると、何を話してよいかわからない。
「あの・・・・・タオル、ありがとう」
ぎこちなく話す恭平に、彼女は、
「どういたしまして・・・・・」
恭平が手渡したタオルを受け取りながら、
「一つ聞いていいかな?」
彼女の大きな瞳がピタリと、恭平の目を見据えている。
「あなたは・・・・・なぜ、びしょ濡れになって、あそこに立っていたの?」
「エッ・・・・・それは・・・・・」
恭平の頭の中に、夕食の時のやり取りがよぎった。言葉に詰まっていると、
「この雨の中を、傘を持たずに家を出るなんて、何かあったのでしょう? よかったら話してみて・・・・・」
彼女はカウンターの向こう側から、恭平の目をじっと見つめている。
恭平は、その目を見ていると、まるで自分の全てを見られているかのような感覚を感じた。
「・・・・・ねえ・・・・・話して・・・・・?」
恭平は、まるで彼女の大きな瞳に吸い込まれていくような気がした。
気がつけば、彼はこれまでの出来事や、翔子への想いなどをポツリ、ポツリと話していた。
兄が翔子を家族に紹介するために、家に連れて来たこと。
最初は単に「きれいな人」と思っていたが、一緒にいると楽しい女性で、気がつけば惹かれていたこと。
兄と彼女の結婚が決まり、弟である自分は、彼女にどうやって接すればよいかわからず、彼女を傷つけるような態度をとったこと。
「そうなの・・・・・」
カウンターの向こう側で、彼女は小さなため息をついた。
「それで、雨が降っているのに、傘もささずに家を飛び出したのね・・・・・」
恭平は、小さく頷いた。
「俺は弟・・・・・男だ・・・・・兄貴と彼女が結婚すれば、俺は、どうすればいいんだよ・・・・・?」
「そうね・・・・・」
彼女は、棚から金属製の小さな缶を手に取ると、蓋を開けた。
「あなたは、お兄さんの婚約者を一人の女性として見てしまっている・・・・・それが態度に出ると、あなたとお兄さんの婚約者の関係は・・・・・」
彼女の言葉を聞いていた恭平がうなだれてしまった。
彼女は、缶の中から独特の香りのする葉っぱ・・・・・ハーブをティーポットに入れると、中にお湯を注いだ。
「男のあなたが、お兄さんの婚約者と二人で遊びに行くわけにはいかない・・・・・でも、あなたが女の子だったら、一緒に買い物に行ったり、映画を見たり・・・・・いつも一緒にいても、仲の良い義理の姉妹なのにね・・・・・」
カウンターの向こう側で、彼女が悪戯っぽく微笑んだ。
恭平は、それを見て苦笑いした。
「確かにそうだけどさ・・・・・俺が女になれるわけないじゃないか・・・・・」
手術でもするのか・・・・・学校もあるしさ・・・・・恭平が鼻で笑ったが、彼女は気を悪くしたような素振りは見せなかった。
ただ、自信たっぷりな表情で、
「あなたが女の子になりたいと望むのならば、なれるわよ」
手術をするわけじゃないし、学校はもちろん、家族も以前からあなたが女の子だったと思っているわ・・・・・。
彼女は、恭平の目を真っ直ぐ見ると、
「あなたのお兄さんの婚約者もね・・・・・」
恭平は、なにも言えずに、カウンターの向こう側に立つ少女を見つめていた。
そんな事が出来るのかという疑念と、自信に満ちた少女の言葉を信じたい思いが交錯する。
「あなたが女の子になれば、あなたたちは仲の良い義理の姉妹・・・・・さあ、どうするのかな・・・・・?」
彼女は、ティーポットの中の液体をカップに注ぎ、恭平の前に置いた。
カップの液体から、良い香りが漂ってくる。どうやらハーブティーのようだ。
「それを飲めば、あなたは女の子になれるわ・・・・・17歳の可愛らしい女の子にね・・・・・」
恭平は、カップと少女を交互に見ている。
胸の鼓動が、試合の時でも感じないほどに高まっている。
「飲むか、飲まないか・・・・・決めるのは、あなた自身・・・・・」
恭平が、少女の顔をまるで睨むように真っ直ぐ見た。
カップを手にすると、ゆっくりと口に近づけていく。
カップの中の液体から漂う良い香りが、彼の鼻をくすぐる。
恭平は、大きく深呼吸すると、カップの液体を一気に飲み干した。



「?!」
洗っていた皿が、彼女の手から滑り落ちて、シンクの中で音をたてて割れてしまった。
まずい・・・・・そう思ったのだが島田翔子は、激しい頭痛を感じて、その場に座り込んでしまった。
「翔子・・・・・大丈夫か?」
リビングから、修二が頭に手をあてながら歩いて来た。
「うん・・・・・大丈夫・・・・・」
ごめんなさい・・・・・お皿を割っちゃった・・・・・翔子が言うと、
「気にするなよ・・・・・」
修二は、彼女の肩をポンと叩くと、リビングに戻って行った。
翔子は、シンクに散らばった皿の欠片を集め始めた。
窓の外から雨の音が聞こえる。
この雨の中、何処に行ってしまったのだろう・・・・・翔子は、しばらく雨音に耳をかたむけていた。



玄関のドアが開く音がすると、台所から翔子がパタパタとスリッパの音をさせながら、玄関まで走って来た。
そこには、雨に濡れた制服を着た女の子が、虚ろな目をして立っていた。
「・・・・・?!」
翔子は何も言わずに、彼女の濡れた体を抱きしめた。
「・・・・・お帰りなさい・・・・・」
震える声が、彼女の耳に聞こえた。
雨で冷えきった頬に、何か温かいものが落ちてくる。
やがて、彼女は気がついた・・・・・これは、翔子の涙・・・・・彼女が帰ってきたことを喜ぶ涙なのだと・・・・・。
「・・・・・ごめんなさい・・・・・」
彼女は、翔子の腕の中で言うと、やがてそれは、激しい嗚咽になった。
「いいのよ・・・・・美咲ちゃん・・・・・もういいの・・・・・」
翔子は恭平だった美咲の、雨に濡れたショートカットの髪を優しく撫でてあげた。
「ごめんなさい・・・・・今まで本当に・・・・・」
恭平だった美咲が、翔子の腕の中で泣きじゃくった。
修二と彼の母親は、微笑みながら、二人を見つめていた・・・・・。



あの日から、一年が経った。
6月の梅雨空も、今日は遠慮をしたのか、前夜までの激しい雨が嘘だったかと思うほどの青空が広がっている。
皺ひとつない制服を着た片岡美咲は、教会の大きな樫の扉の前で、この式に出席した人たちと共に、この日の主役が現れるのを待っていた。
やがて・・・・・。
「?!」
出席者たちが、感嘆の声をあげた。
美咲も扉の方を見て・・・・・そして、息をのんだ。
タキシードを着た彼女の兄・・・・・片岡修二と、純白のウェディングドレスを着た島田翔子が現れたのだ。
「綺麗だ・・・・・」
恭平だった美咲は、思わず呟いた。
「島田先生! おめでとう!」
稲本先生と小原先生の祝福の声が聞こえた。
「兄さん、翔子さん・・・・・おめでとう!」
美咲も二人を祝福した。
翔子は、少し照れくさそうに微笑み、そして、修二を見上げた。
修二が頷く。
翔子がブーケを投げた。
出席者たちから歓声があがる。
青空から落ちてくるブーケを、恭平だった美咲がキャッチした。
翔子と恭平だった美咲が微笑んだ。
「おめでとう・・・・・姉さん・・・・・」
「これからよろしくね・・・・・美咲ちゃん・・・・・」



礼拝堂の中を、ステンドグラスから差し込む光が照らしている。
誰もいない礼拝堂・・・・・その磨きあげられた床の上を、あの喫茶店の少女が歩いている。
やがて、眩い光が彼女を包み、光が消えると、白く輝く服を纏った美女が現れた。
美女は聖母像を見上げると、温かい微笑みを浮かべた。
「・・・・・お幸せに・・・・・」
微笑む彼女の体を光が包んでいく。
その光と共に、彼女の姿は消えていた。

ステンドグラスから差し込む光が、優しく微笑む聖母像を照らしていた。





6月の空

(おわり)




作者の逃げ馬です。
掲示板で頂いたHIROさんからのリクエスト。「『僕は保母さん?』の、その後の物語を読んでみたい」というリクエストに答えてみたのが、この作品です。
「その後の物語を書くだけで、大丈夫なの?」という心配の声もいただきました。
単に、その後の生活を書くだけでしたらそうなる思います。
でも、生活をするということは、新たな出会いもあります。 
そうなると、新たな出来事も・・・・・ということで出来上がったのが、この物語です。
さて、いかがでしたか?(^_^)

聖母様は、今回は恭平君を助けてくれました。
怪しいゲームをしているだけではありません(笑)
これから聖母様には・・・・・たくさんの人たちを助けてもらわなくては・・・・・と、書き手は思っています。

HIROさん、リクエストをありがとうございました(^^)/

そして、読者の皆さん。 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また、次回作でお会いしましょう!


なお、この作品に登場する団体・個人は、実在のものとは関係のないことをお断りしておきます。


2014年7月 逃げ馬
















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